覚者慈音1558   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1558
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・12・05


 余事は別として今是を人間の精神と肉体について語るならば、肉体より精神を軽んじて肉体にのみ満足を与ふる如き自由を、敢てせば身心共に軟弱となりて、果は病床に呻吟する結果とならん。又精神が肉体を軽んじて粗略の行動をなさしむるならば、是又同様の結果を見るは必要なるべし。肉体は精神を尊び、精神は肉体を愛することによって、両者一体となりて生活の楽みを味はひつつ世をすごすに至らん。是正しき自由を自然に従ひて求めし現はれなりと知らば、自由とは、汝等が考ふる不自由は、即ち真の自由に合ひ居るとも見らるるべし。世人の思ふ不自由とは苦まずしていささかの時間たりとも安らかならんと計ることを、自由と誤認なし居るが故に、自由をあやまつなり。他を愛すれば他も亦我を愛す。是自由と自由の結合なるによってなるべし。いささかの安楽の為に彼をいなむならば彼又我をいなむならん。然らば自由は得られずして却て争闘はまぬがれざるべし。是不自由の現はれなるが故なり。すべて自然と自由は反比例なしたる如く思はるれど、自然に従はざる自由は、不自然自由と変じ、自然に順応する自由は、正しき自由となる事に深く深く心がけざるべからず。病魔の襲ひ来るは肉体の油断によるか、或は精神の油断によるかを考へ見るべし。肉体を正しくして常に整へ居らば、病魔は入り来る隙はなき筈なり。肉体の自由を恣にして少しにても安らかならんと考へて不行儀の姿をなし居るが故に、そこに隙間を生じ、病魔は遠慮なく侵入し来る。肉体整はずば精神も従って軟弱となりて、肉体を整ふることをなさしめず、故に病魔は呵責なく入り来りて結果は苦めらるるに至らん。然して苦き薬或は他より介錯を受けずば、治癒せざる如き悩みを引き起し居ることを、我はよく知る。是自由をはきちがへたる結果、自由が却て不自由を与ふるに至りたるなりと知りて、斯るあやまちを起さざる用心肝要なり。斯く語り来りたる時肉体を整ふれば精神は整ふか、又は精神を整ふれば肉体も整ふかとの質問をうくるならん。肉体より精神に及ぶか、或は精神より肉体に及ぶかとの意味なるべし。静座して智慧を求めよと云ふ宗教の教へもあり、又信心を堅固にして肉体の如何に不拘、智慧を求よと教ゆる宗教もあるなり。所謂一方は身を整へて智慧を求よと教へ、一方は身を砕きて堅固なる智慧を求よと云ふにあり。是を我等に云はしむるならば、肉体より智慧を求よと云ふもそは一方的なり。又精神より肉体に及ぼせよと云ふも、是又一方的なり。所謂釈迦が教へし琴絃の強すぎると、弱はすぎるその関係なるべし。

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