覚者慈音1557   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1557
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・12・04


 自然の力のはたらきは善悪共に斯くの如き力あるによって、その心がけ一つにて如何にともなり行かば、即ち自然の法則が絶対にして変ぜざるが故なり。善にくみすれば善となり、悪にくみすれば悪となり、もし自然が善にくみして悪となるものならばそは自然にあらず。自然は純にして曲げらるるものにあらざることに留意して、その用法をあやまたざるやぅ注意せざるべからず。肉体に重点をおかば自然は肉体にはたらき、精神に重点をおかば精神にはたらく。是を一方的に偏らずして肉体と精神との融合を計らば、自然は是又融合したる両道にはたらきて、其本分を全からしむる力となるは云ふ迄もなし。釈迦は徒弟に対して琴の絃を余りに強くせば銘音は出でず。又弱はくするも同様の関係あるによって、程よき処にて弾ずれば銘音は出す如く、人も亦斯くの如き理由あるによって何れにも固着せず、中道を行くにあらざれば修行はなり難しと教へしも此理なるべし。即ち自然を求むるものの心に従ひてはたらく。ここに於て自由と云ふことの一大事を知らざれば、自然は正しく用いらるるものにあらず。自然は斯くも人々の行ひ且つ望むがままにはたらけど、自由をあやまてば自然も共に是にくみしてはたらくが故に、自由をあやまてば結果も亦あやまちを生ず。此理より考へを廻らせば、自由の大切なることを知るならん。世人は自由を口にして、己が慾するが儘の行動を心のまゝに行ふことを自由と考ふるは、大なる誤ちなり。されば自由の用いかた如何によって自然をも、不自然に変ぜしむることに深く留意せざるべからず。世人の行ひ居る自由とは正しき自由にあらず。身勝手の行為を敢てして、其を自由と思ひあやまり居ること多からん。されば自由とは如何なるものかをよくよくわきまへて用ゆべし。敬ふべきものは敬ひ、憐むぺきものは憐むは、是即ち自然より生じたる正しき自由なり。然るを敬ふべきものを蔑み、憐むべきものをうとんずる如き自由は、是不自然の自由なることに思ひを致さば交はりを結ぶにも礼を以てせざるべからず。然るに現今の人々は自由をはきちがへて我儘の行動をなすによって礼儀をも忘れ、他をうとんじ他を軽んずる如き振舞をなして其をとがむれば、そは己が自由なりとて耳をかさぬ底の人多からん。斯る自由を恣になし居らば争ひは断えざるべし。是自然に順応せざる自由の結果によるが故なり。

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