覚者慈音1556   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1556
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・12・02


 泰岳が病めるものの枕辺に座りても、その患者が治癒するは是即ち霊子のはたらきなり。彼は恰も清浄なる水の如き人物なれば、如何なるものの心の中にも流れ入りて他を救ふなり。救はんとする心は既に隣室の襖を閉じたるると同様なれど、彼は常に襖を開け放してあると同じ姿なりと考ふればよし。清き心直き心になれよと云ふは是なり。濁れる心あらば霊子も共に濁る。清き心は霊子を清くはたらかす故なり。濁れると清きとの心に対して、霊子は其に従ひてはたらくことは先にも語りし如くなり。明るき心は他をも明るくし、暗き心は他をも暗くす。是みな霊子の働きがその思ひに従ひて動ずる故なり。ここに於て又考へをめぐらさざるべからず。汝もし暗き心にならば霊子は暗くはたらく。されば汝は悪魔とならん。清き心は霊子を清くはたらかす。されば汝は仏とならん。俗言に人の心には鬼も仏も宿り居ると云ふにてはあらざるか。汝悪魔たらんとせば暗き心にて他に接せよ。仏たらんとせば清き心になりて他に接せよと我は教ゆるものなり。悪魔は何処にありや。仏は何処にありや。神は悪魔を何故に亡ぼし給はざるかとの質問に対して、我等は斯く語るに止めん。是以上は汝等の工夫によって悟るべし。他を害せんと思ふにあらねど他を欺きて己益せんと考ふる如き心は暗し。その暗き心を持つ人あらば其は何に属するや。我犠牲となりても他を救はんと考ふる行ひは何に属するやを考慮せば可ならん。神は善人ばかりを作りて悪人を亡ぼすと仮定して考へ見よ。善人あっての悪人、悪人ありての善人なるべし。善人ばかりにては悪は判明せず。悪人ばかりにては善人は判明せざるべし。善悪は即ち歩みの其の如く故に善悪なくんば正しき進歩は望まれざる理も叉推して知ることを得ん。工夫すべき処はここにありとは考へざるや。我等宗教信仰者に対して迷信を避けよと教へしは是なり。汝等迷信宗教にくみせばその心は暗くなりて悪魔の所行を敢てするに至らん。悪しき宗教者の傍に座し居らば霊子は暗くはたらく。此暗きはたらきの霊子に犯されなば信者の心の暗くなるは当然なるべし。故に宗教信仰者は正しき清き教への指導者のもとに至りて、教へを聞かず唯座し居りても、其にて明るく清くなりて正道に導かれん。是又霊子のはたらきあるが故と知りて、迷道に惑はさるる勿れと教たるものなり。

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