覚者慈音1554   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1554
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・12・02


 是を人体に応用して考へ見るべし。例へば汝の眼は今花を見るとして考へ見るべし。その花の美は汝の眼に映じ眼より心に感じて美しと思ふならん。眼と花の間に距離ある如く思はるれど、霊子は距離なし。花にも霊子あり。眼と花は一体化して心に映ず。心と眼は距離あるにあらずと思ふならん。されど花と眼との距離ある如く、花を中心として心に映ずる迄、眼と花、花と眼、然して眼と心の間隔は、即ち同距離となる道理あらん。此理は世人には解釈することは至難ならんも、先づ眼を花に映じたるが故に、花は眼に来り、眼は心に映じたる如く思はるれど花を見るは、心より眼、眼より花となり、既に心には先に映じ居るが故に、美しとの考へは湧き出でて尚もその花に見惚れあるなり。されど霊子には距離なきが故に、是等の相互関係は霊子より観察する時はすべて一体なり。聊かむづかしき説明なれば世人には解し難からん。されど少時忍びて我説を聞くべし。然して此説明を汝等が心によりて考案工夫せよ。この事柄を考案工夫なし居らば自然の根原は自づと汝が心に現はれて、自覚の説明をあたふるならん。例へば襖を隔てて人と人とが対座する時、眼によって談話せざれど耳によって互に語るならん。襖を開らけばここにはじめて顔を見合はせて語ると同様の関係と知らば可なり。
 世人は襖の開閉によって隣室との談話に相違ありと思ふならんも、そは肉体同志のことにて霊子は既に共通なし居るが故に、隔ての襖には何等の相違はあらざるなり。汝の住める地球と何十極里隔たり居る世界と雖も、霊はその隔たりの区別なければ、恰も膝を合はわせて語ると同様の関係となる。否其以上接近して汝の心と、汝の心が、互に話し居ると同様の関係と知らば可ならん。霊子には距離なきが故なり。始めありて終りあるものには時間空間距離を有すれど、無始終なるが故に距離はあらざる理も推して知ることを得るならん。故に霊子を如何にして引きはなさんとすとも決してなし得るものにあらず。彼と我との肉体は隔りあれば霊子も又隔り居るを考ふればそはあやまりにて、霊子は汝と彼とのつながりにて決して隔りのあるものにあらず。もし此無始終霊子なかりせば汝と彼は一体の関係を断ちて分散するならん。斯く語らば世人は云ふならん。我と彼とは分散するにてはあらざるかと。然れば問ふべし。汝のたてる処と彼の立てる処は異なるや。大地は一なるべし。唯眼によって距離を見るのみ。大地に於てすら汝と彼を一になし居るにてはあらざるか。まして霊子は全宇宙の祖先なり。終始なきが故に凡てを其中に包含なし居るにて、すべてを作りしも霊子にして、すべてを本にかへすも亦霊子なるによりて、汝等の生れしところは霊子にして、又帰るところも霊子ならん。この理をすべてに応用せば自然の何なるかは理解せらるるならん。故に気光素は自然に順歩したる法則によらざれば、正しきはたらきをなすものにあらず。



 この難解な論旨を理解できる方は果たしておられるのでしょうか。私のようなぼんくら頭ではすこしも理解できません。貴尊はお前如きに理解できぬことは百も承知。唯一言一句間違いないように転記することだけがお前に与えられた務めであると言明されて居られるように拝察しています。何故ならこの書は末永く後世に伝えるためのものだから・・・・・

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