覚者慈音1553   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1553
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第五十      自然の法力と不自然の法力    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・11・29


 人は常に安からんことをのみ望みて世を渡るが故に、永久の安楽は得られざるなり。蟻は夏の間分秒も休まずはたらきて、冬の長き間を安らかに暮し居ることを、世人はよく認識なし居ながら、是を己の修養とはせず徒らに安き日をのみ送らんことを望みて、却て永久の苦みを求め居ること、是油断の結果なり。事にあたっては苦みを苦みとせず、苦みを楽みの如く心得て修行し居らば、最後の安楽は永久持続することは火をみるよりも明らかなり。先見の明ある人と一時的の事柄を計るとの相違あることを知りながら、唯一時的の事柄に囚はれて却て永久の苦を招き居ることは、現在の日本の姿にてもよくよく知り居る筈なるに不拘、唯その日その日を安楽にすごさんとなすによって、危き結果を見ることには無関心にてはあらざるかと、我等は憂慮するものなり。もし今後世界戦争の起ることことせんか、先づ是等を考慮に入れて工夫し何かの方策を構ぜざれば、一層危き日本の姿は現出することに思ひを致すならば、今日の如き其日暮しの考へを早くすてて何とか一工夫なかるべからずと我等は思ふが如何 !  是等は余事なれば多くは語らじ。我、斯く語り居る時、慈音は米ソ戦争は生ずるかとの質問ありたれど。是に対して答弁することは許されざれば語るを否みたり。さりながら戦争の有無に不拘、ありと見て考慮しをかば安全なるべしとのみ答へをなしをくものなり。
 自然の法則はあるものに対しては限度を有し、又ある物に対しては限度を有せざるが故にここに順逆の相違あるなり。限度を有せざる無始終霊子にありては、古今の区別なく又時間空間の区別あらざれば、用ゆれば直ちに現はれ、用いずとも唯現はれずして其力は常に異なることなし。法力は霊子の力を云ふなり。さればその現はれは終始なくはたらき居ることに考へを廻らして、すべてにこれを応用することによって如何ともなるにて、大に用ゆれば全宇宙にわたり、小に用ゆれば細菌に及ぶ。自然とは即ち無始終霊子に帰することを云ふにて、又この無始終霊子によって生存することを考慮せば、その力の程度は無限小無限大に通じてはたらくと知らば可ならん。 

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