覚者慈音1549   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1549
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十九      自然の順逆について    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・11・27


 我師、仰せられし如く、水を汲むに焉ぞ籠を用いんや。桶を用いて是を汲めば甕の水は速に満たさるるにも不拘、籠にて水を汲せ居ることを諒せよと仰せられし言葉を、世人は完全に認識なさずして、唯表面のみ読みながしたるにてはあらざるか。是自然を逆になしたる結果に他ならず。自然の順逆とは斯くの如き関係あることに深く注意せよ。天より生れて天に帰るは、根原より根原に帰りたる順路なるにより、下界は即ち仮の宿となる。然るに下界より天界に至り、下界にかへると考ふるが故に、同じ順路の如く考へらるれど、実は天界と云ふ根原を忘れたるが故に、天界は仮の宿となる結果なれば、是即ち反対となるによって、逆となることを考慮に入れざるべからず。天を仮の宿と見なすと、下界を仮の宿と見なす結果に於て大なる相違あることを考慮せずして道を歩まば、仮の宿に永久住む結果となることに帰着す。故に人は仮の宿を恋して、一日も生命の長からんことを望むは、是誤りたる考へにてはあらざるか。この理をよくよく翫味し見よ。彼我の区別に於ても亦同様の関係あることを考慮せよ。道は一にして二なし。されど彼我の区別に於ても我を彼とし、彼を我とするは是相対の関係なれど、彼我の区別をとりさらば残るは唯一すじの道なるべし。
 所謂有限線分と無限線分の関係となる。即ち彼我の区別を作れば有限線分となり、彼我の区別をとりさらば無限線分となれど、線分と云ふに異なることなし。この理を翫味せば自づと理解することを得るならん。無限線は一なり。是に彼我の区を定むるによって有限線となるにすぎず。無限線とならば神と我、我と神の如き区別なければ、我と神とは始終なく一体の境涯となるも、是自然の法則なるによってなり。先にも語りし如く宇宙と人間は同様の姿にて組織され居ると語りしを、この理によって察することを得るならん。世人は我と神と云ふ区別を附するによって一体となることは至難の如く考へらるれど、我即神、神即我の関係とは、所謂有限線を無限線に変へたると同様なりとして推考せば、我もなく神もなき神我一体の姿となるは、必然の理なるべし。ここに思ひを致して修養せば道は遠からず、最後の終点は眼のあたりに現出するは、火を見るよりも明らかならん。故に貴尊方が仰せられし如く神は汝をはなれじと仰せられしはここなり。汝は神を知らずとも、神は汝を分時も離るることあらじと教へられしは、この理なり。汝は神を知らんとするが故に、所謂神我の相対となりて有限線を作り居れど、この区を消去せば、神は汝を離れ給はずとの教へは、たしかに認識することも得らるる道理なるに不拘、常に神を求むるによって、却て神に遠ざかり居ることは有限線を無限線に変へざる故に、尺度のみながくなりて追へども追へども求むるあたはざるなり。有限線を作らずば神我は一体なりと語るもこの理なることにめざめよ。さらば神は汝に至らん。

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