覚者慈音1548   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1548
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十九      自然の順逆について    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・11・26


 慈音に現はれし天使は誰なりしか。慈音はこれを悪魔なりと思ひあやまり居ることを我は知る。慈音に現はれしは悪魔にあらず。真の天使なりしなり。是を知らずして教主が魔人か天使が魔人かに思ひ惑ふは是慈音の未だ修養の至らざる故なり。慈音にして五大鏡八大門の理論を正しく認識なし居るならば、斯る事に対して聊かも動ずる事のなかりしならんに、さてさて智慧の至らざる者よ。慈音の如き浅才なるものと雖も修すれば五大鏡八大門の備はりあるなり。此五大鏡八大門完全に備はりあらば、天使と魔人との鑑別は適確に看破なすことを得たらんに、聊かにても心の動揺を験するは笑止とや云はん。慈音に現はれし天使と云ふは余人にあらず、セイキョウ貴尊なりしなり。所謂五大鏡の具備が慈音にもあればこそ、貴尊方が現はれて種々様々教化なし給へることを記録し居るにてはあらざるか。立体鏡とは何ぞ。即ち智慧の鏡にてはあらざるか。科学が今後進みてその立体鏡が原理によって構成されたりとするもそは機械にして真髄迄感受し、然して其柄適確に道を明らかにする迄には今後尚前途遼遠ならん。もしその立体鏡が科学より組織せられたりとも、智慧の鏡の如くならざるべし。機械は機械だけのはたらきにすぎず。智慧の鏡、即ち智慧の立体鏡にあらねば自由自在の姿にて、如何なるものをも映し出し、その映し出したる物の原因結果に至る迄明らかに示めすことを得る力、その大なる力こそ、世人のすべてに宿り居ることを知るならば修養修行の法も従って明らかとならん。我、念力集に於て世人に語りし適水の法を、世人は如何に読みしや。
 大なる籠を以て一滴々々の水をくみて甕に移したりと云ふ如きは、唯是を斯る苦行をなさざれば行者は目的を達することを得ざるかと思ふなり。世人はその講を読むにあたっても斯る考へにて読み居るが故に、己自らの修養とはならざるなり。今是を一歩進めて考へながら読みかへし見よ。清水の流れを汲む籠を以てすとの意味を如何に考へて修するやを検討し見よ。神の恵は清水の流るる如く汲めども尽きざるに、わづか一滴々々の水より汲むことのあたはざるは、世人の凡俗なることを教へられたることに心づかざるや。汲めども尽きぬ清水を何故桶にてせつせと汲まざるや。汲めども汲めども尽きざるは神の慈悲なるに不拘、世人はわづか一滴すら汲む事のあたはざる凡心を、何故反省せざるやを教へ居るなり。故に凡心の籠を早く桶にかへて思ふがままに、神の恵を戴けよとの教へなるに不拘、唯修行はつらきものとのみ思ひ誤りて籠を桶にかへざるが故に、苦みは長く続く結果となり居ることに留意せば、世人の修養修行は速に達せられ行くなるに不拘、表面のみを読みて修行はつらきものなりとばかりの考へに囚はれ居りては、一個の甕に水を満たすにも光陰は遠慮会釈なく進むのみにて何等の効もなからん。修行修養とは教へられたる事柄を、智慧の徳に依て是を我物となすにあらざれば、目的は達せざるは是又自然の法則なりと知るべし。
 

×

非ログインユーザーとして返信する