覚者慈音1547   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1547
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十九      自然の順逆について    
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・11・26


 我、斯く語らば世人は思ひ惑ふならん。貴尊が先に仰せられし如く、地球の表面を太陽と共に一周するならば暗なく、太陽を離れて一周するならば明はあらざるべしと仰せられしことに思ひをはせよ。暗より暗に行くも自然にして、明より明に行くもこれ又自然なるべし。明を追ふて行くものと、暗を追ふて行くものとの相違は那辺にありや。明を追ふて行くものを順とするならば、暗を追ふて行くものも亦順なるべし。然るに同じ順路を明暗二つに区分して歩みを運ぶとせば、一方は順と見なし、一方は逆と見なすは当然ならずや。是又相対の区別より考ふれば一方順ならば、一方は逆となる関係とは考へざるか。所謂明を追ふて歩むものを善と見なすならば、暗を追ふて行くものは悪と云ふ言葉に組織せらるるならん。此理より考ふる時、明を追ふて歩むものは神に属し、暗を追ふて行くものは、悪魔に属すと云ふことを発見するにてはあらざるか。太陽と共に地球を一周するものと、暗を追ふて一周するものとの歩みの道は一つにて、唯地球を一周すると云ふにすぎざるに不拘、両者の相違は神と悪魔の道を歩るき居ると云ふことに帰着す。
 天より出でて天に帰り、地より出でて地に帰る。是何れも順路なることに相違なけれど、慈音の考へる如く唯是を自然と見て、何れもが順路なりと誤認し居るは、是未だ順逆の自然をわきまへざるによってなり。自然の道は一つにして、二つあることなし。然るにこの自然の歩みかたをそのままの姿にてこれを表面より観察するが故に、斯る誤認は生ずるなり。天より作られたる自然を天理として応用するは、是順路の順路と云はざるべからず。地より出でて地に帰るは、天理を没却したる歩みかたなるによって逆となるなり。即ち天理をわきまへず、唯順路にのみ囚はれ居るによって、かくも逆路を辿る事に思ひを致さずば、自然の自然の順路を適確に把握することは至難なり。世人はすべてものを観察するに、天理を没却して唯表面に現はれ居る天理を、天理として修得するによって道ははかどらず遅々として進まざるなり。
 貴尊方が説示し給へる五大鏡八大門は何のために教へられしか。よしや全宇宙に斯るもののありとして是を其儘に受け入れて聞き居るならば、貴尊の意志が那辺にあるかをすら認識するあたはずして、唯伽噺の如く思ひあやまる結果とならん。斯る事にては貴尊方の教へは全く徒労に帰するなり。五大鏡八大門は何処にありや。即ち世人の精神に悉くが具備あることを教へられたるに不拘是を他事の如く思ひて修養なし居らば、一つの夢物語にすぎざるべし。斯る事にては聞見しても、何等のしるしはあらざるなり。許されたれば今慈音に現はれたる天使のことについて語るべし。

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