覚者慈音1545   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1545
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
特別講義        慈音のなやみ    

        インショウ、ミキョウ貴尊講述
            2019・11・24


 其は他にもあらず。昭和二十四年三月二十二日、一人の天使慈音に現はれて曰く、「汝、慈音よ。その方今日迄修養修行と称して、何かと学び居たることを汝は是を正しと思ふや。もしまことの正しき神ならば、かかる曖昧なる教へはなし給はざるなり。汝今日迄様々学び得て何一つ理解なしたることありと思ふや。唯彼是迷ひを深くするのみにて学べば学程、迷ひは益々深くなるのみならん。かかることを何時迄繰り返し居るも、何等益することはあらざるべし。汝にして斯くの如し。まして汝の説を聞くもの迷ふは当然なるべし。速に斯る事を捨てて正道につけよ」と告げて立ち去りたり。翌日又現はれて
曰く、「慈音よ。未だ我を疑ふや。汝此書を学び始めたる時、手足の自由はかなひて点筆をはたらかせ居たりしに、その後は次第に手足の自由を失ひしのみならず、大病を病ひ、然して足腰も立ず、両便の事迄他人を煩はすに至りたるにてはあらざるか。もし真の神ならば神としての慈悲心を以て、汝を安からしめ給はんに、かくも汝を苦しむるは是正しき神のなし給はぬところにてはあらざるか。この理をよくよく知り得たらば速にかかる迷信を止めよ」と教へて立ち去りたり。彼又その翌日二十四日現はれて曰く、「慈音よ。未だ解することを得ざるか。神は慈悲なり。慈悲の神にして汝を斯く迄苦しむるさへあるに、汝に来りて汝を助くる欣情に於てさへ尚さとらしめざるのみか、迷ひのみ深くなして今や欣情すらあやまたしめんとなし居ることを、汝は如何に思ふや。汝一人如何になりたりとて汝は思ひ諦らむるならば汝一人にて終らん。されど欣情をはじめこだま会に集り来る人々に迄及ぼして、迷はする如きは是悪魔の行為にてはあらさせるかを、よくよく考慮してかかる信仰は速に放棄せよ。斯ることを持続して修し居らば幾とせ苦み、又多くの人を苦むるに至らん。故に我は命を受けて汝に来りたり。早く心をひるがへして我言葉に従ひ然して今後我教へを受けよ」と斯く語りて彼は去りたり。慈音は二十五日の夜は一夜眠らず。彼是思ひ惑ひたりしが、二十六日の未明現はれし天使に向いて曰く、「汝の言葉の如く教主は悪魔なるか、又汝は悪魔なるかは我等如き凡眼にては、到底明らかに見定むる力そなはりあらず。何れにもあれ我等は最初より教主を信じて今日に至る。たとひ水火の責苦をなむるとも我は決して教主を怨み且つ信を曲ぐる者にあらず。よって今後汝は我に来るとも我、汝に従はじ。又欣情その他の人々に是を語り我に来るものは我と行動を共になし、我を離るるものは決してあとを追はず。よって汝の忠告は有がたしと思ひて受くれど汝に従ふことはせざるべし」と語りて別れを告げたり。
 此話についての批判は慈音に於て未だ行中の出来事なれば、教主の許可ある迄云々することは見合はせて、是を因果論に於ての関係を聊か語りおかん。所謂先に語りし木の枝にいろいろの蔓の絡みつきたる如き因縁とは是を指すなり。この蔓の切りとりたるは、即ち慈音が汝に従はじと云ひしと 同様の関係なりと思はば、中途因果の理由は従って明らかとならん。よって参考迄に記しをけり。もし慈音がこの絡みつきたる蔓に従ふと仮定して、因縁の理を推考し見よ。然る時は木の本分は失はれて蔓に重点をおかるることとならん。然る時はその結果は如何になるやも考慮に入れて工夫せば、修養の道も従って明らかとならんと思ふが如何。

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