覚者慈音1543   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1543
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十八    自然因果と因縁関係について
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
              2019.11.23


 世人はすべて表面にのみ囚はれて、内部に至る迄観察をなさざるが故に、稍もすれば清水に毒あるを看破するあたはず。汝等蒸留水は混合物あらざるが故清浄なることを知るならん。されど蒸留水にて人体を養ふことは難し。もし蒸留水のみ日々用い居らば、肉体は自然軟弱となりて健康は保たれざるべし。先づ水の可否を知らんとならば分析してよく良否を確かめて、是を肉体に用ゆるならば健康は持続すること疑ひなし。水の良否を鑑別することは即ち原因より結果に至る迄捜索することを云ふなり。僅少なる水に於すら斯くの如し。まして是が万般にわたって、その悉くを認識する力は、終生努力すともきはめ尽すことは困難なるべし。一法を修すれば万法に通ずの比喩、一つの法をよくよく究めて、是を万法に応用せばその原因結果は悉く明らかとならん。
 自然の中には根底より様々に別れて、其自然が中途自然に至って複雑となり、結果に於ては計り知れざる稔りを結び居ることに留意せざるべからず。例へば雑草が地上に繁茂して種々様々の花を開らかせ実を結ばせ居る様を見よ。根は悉く土より出でて空にのび居ることは誰もが知るところ。されどその繁茂し居る様々の雑草、悉く自然によってその性質を異にしながら、結果を見せ居るにすぎず。是種子の異なるが故に、自然は異なり居る事も亦頷かるるならん。されど是を一つの理に帰せしむるならば根によつて地上に出で、然して実を結ぶと云ふ事の理は悉くに通ずるならん。この種子は此花を開らき、此種子は此実を結ぶと、その一々をきはめ居らば余りに数多くして其全部を究むること難し。されど根によって結果は得らるると云ふことの自然は、誰もが頷き知るところなるべし。故に一法を修すれば万法に通ずと云ふも、是又自然の法則ならずや。人には人の行くべき自然あり。草木には草木の行くべき道あることも、皆同様なるべし。世人は人に生れて他のことを知らんとせんよりは、寧ろ人に生れて人の自然を知り得たらば、其にて他の事を知らずとも、人としての自然の道理をわきまへなば、其にて使命ははたされたるにてはあらざるか。人間界の自然こそ、人の道なるべし。又その自然に順応せば必ずや人としての本分を全うすることは、是又異論の余地なからん。人は多くのことを知り得て却て迷ひを広くす。故に自然より遠ざかることも亦多し。自然の法則には他より受くる影響によって己が自然を傷くること多し。恰も木の枝に様々の蔓が巻きつきて何れがその木の枝葉なるかを判明することあたはざるに等し。是等は中途自然の迷ひより生ずる現はれにして、そのからみつきたる蔓を悉く排除せば、己が本分の自然に立ち返へることは云ふ迄もなし。恰も地上の雑草が互に交はって、何れが何れとも定め難き境遇に置れたると同様の理に留意せば可ならん。人は智識を広くせんとして、余りに多事多端にわたりて修養の道を広くせんとして、却て雑草を繁らせて己が使命を果すことを得ず。遂には雑草と共に枯死する如き愚を敢てするは遺憾なり。慎まざるべからず。

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