覚者慈音1538   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1538
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十七    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.11.21


 春来りて春は去り又来りて又去る。されど去年の春と今年の春とは同じからずして身心共に一歩々々亡び行くにすぎず。来るものは来り帰るものは帰る。是自然の法則なりと世人は考ふるか。汝等が地球は太陽との関係にて年々同じ事を繰り返へし居れど汝等の肉体は然にてはあらざるべし。何時かは消滅して地上に影を止めざるべし。太陽と地球との関係は年々同じと思ふは其も大なるあやまりなり。もし地球と太陽との廻転が同じ方向に向ひて働き居るものならば宇宙には何等の変化も生ぜざる筈なり。是を時間空間によって計算なすことは難きにあらねど、その計算によって変化の度を計る学問は未だ完成なしおらざることを我等はよく知る。
 世人の口にするところを聞けばあてにならぬものは人の運命と、天気予報なりなど悪口をなし居るにてはあらざるか。人の運命を明確に知ることを得ざるは宗教者の未だ幼稚なるが故なり。又天気予報のたしかならぬは学者の至らざる故なりとの意味ならん。何れにもせよ宇宙の将来の如何に変化するやは汝等の世界の学者にては、未だ確実に斯くなると断定する学理はなりたち居らざるべし。人の運命又同様ならん。かばかり事に於てすら未来を予測し難きに、まして全宇宙の広大なるに至っては、到底筆舌の及ばざることも亦是非もなきことならん。されど我等が世人に教へんとするところの意味は他にあるなり。所謂理は一にして二なきにあらざれば徹するものにあらず。宇宙及び全宇宙の姿は広大無辺にしてその形状も悉く同じからざる如く見ゆれど、そは枝葉にして是を根にかへせば、即ち根底の成立は先にも述べし如く、無始終霊子のはたらきによって現はれ居ることに気附くならば、すべての学理は是を基礎として、各方面にわたってその組立ての如何を測定するならば、容易に結末は判明する道理あらんと思ふが如何 !
本は一にして末は広がれど、恰も一本の扇子の如く開らけば広く、たためば狭く、即ち根に返さば要(かなめ)によって成り立ち居ることを悟らば、理は一にして二にあらざることに思ひを廻らすの他なかるべし。中途因果の法則より開らきし扇に認めある絵空事ににのみ囚はれ居ては、扇のすべてをはかり知ることは至難なると同様の関係とならん。有形の画、無形の画の道理も是に依って推理を廻らさば、その結果の原因の如何を先づ知りて、其に依て方向を結果にむけて推考せば、最後の結果は明らかに知ることを得るは当然なるべし。水は人間生活上なくてはかなはぬ重要なるものなれど、其水のために人命を奪はるる悲惨なる結果を見ることあらん。されど水に於てその源を逆上って考ふれば、水は人命を育つるははなれど、あやまてば生命をとりさるものとなるも、これ用法が中途因果より考ふる時は、ここに何かの意味が潜在しある事に心づくならん。

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