覚者慈音1537   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1537
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十七    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.11.20


 無始終霊子は霊を作り、霊は魂魄を、更に心意などすべてにまたがりて作りたりと考へて、これを心意より魂魄へ、魂魄より霊へ、更に霊子に迄帰らしむると見なさば、霊魂の不滅なることの道理は察するを得るならん。然りとせば肉体に於て一々の細胞にすら霊子の含まれある以上、滅するの道理あらんや。唯或程度くみたてありしものが時節来りて分散したるを見て死滅したりと考ふるは、人智の到らざる故なることも推して知ることを得ん。一個の細胞すら破壊されてのち霊子に帰るならばその破壊されたる細胞は唯分解せられたるにすぎず。悉く霊子に帰りて細胞としての任務を終りたるにすぎざるならん。即ち形を変じたるに他ならずと知るべし。細胞に於てすら斯くの如き道理ありとせば因果の法則に対して因あらば果あることの理も亦考究せざるべからず。有形の因無形の因ある以上有形の因無形の因ある以上無形の果あることは当然なるべし。故に霊子より出でて霊子に帰らば即ち因果のつとめは果されたるなり。一個の種子を地上に下し其が育ちて花を開らき実を結びて種子を残すは、即ち霊子より霊子に帰りたりと同様の姿なり。即ち種子より出でて種子にかへりたる故なり。さればこの理より人は生れて更に人は帰る。所謂人より出でて人に帰るも因果の法則なるべし。されど始めの人を親と云ひ、次に生るる人を子と云ふにてはあらざるか。然りとせばはじめの親は何処に行きしか。是あるが故に因果の理は複雑となり居ることも亦頷き知ることを得ん。とにかく百人の見るところ百人の指すところのものは実在なるが故に、その形変ずれば忽ち事実を現はす。故に是は斯くなりしとの証明は与へらるるなれど、無形のものの行衛は百人悉く同視するあたはざるが故に、一様に是を区分することを得ず。故に是は真偽両道に区分せられて何れを事実とし何れを虚説と見なし可ならんかに思ひ惑ふに至る。人死してすべて一様に神の世界とか、或は天界とかに運ばるるものならば地上に存在する間何事に限らず善悪邪正など考ふるの要もなく、強き者は弱はきを虐げ我儘気儘の振舞をなし居ても差支なく、天界に入ると断定するならば、弱はきものに生れたるものは永久苦みより苦に終る結果とならん。かかる事にては地上に生存する間何事をも修行修養の必要に迫らるることなきなり。善人も悪人も一様に天界に移さるるとせば、思ふがままの振舞を敢てすとも差支なからんと世人は考へを持つならん。世人は戸外に出づる時、身を整へ服を改むるは何故ぞ。其は衆人に対して我身の美きを誇らんとする心にてはあらざるべし。たまたまかかる思ひにて紛装をこらす人もあらん。されど是を仔細に検討すれば身を整ふるは己が心の美より出でたる一種の現はれと見るも差支なからん。花を見て美を知り、月を見て心を清くするも是一種の何かが己が心の底に自存し居る現はれにてはあらざるか。他人一倍すぐれたる装ひをこらすも、是他人一倍己が美を衆人に知らしめんとする誇にてはあらざるか。よくよく此理より推考して己が心を本然の姿にかへして考へ見よ。人身は唯強弱の生存にてはなりたつものにあらず。そこに何かのものの潜在し居ることに留意せざるべからず。酒色に溺るる人と雖も唯肉体のみの満足を恣にせんとての姿にはあらざるべし。肉体の要求を満足せしむる底の行ひならば唯一時的の現象にすぎず。肉体の要求は永久的にあらずして帰するところは心の要求に基因すと見なしても差支なからん。一時の享楽は同じ場所を往来するにすぎず。同じ場所を往来する間に肉体は亡び軈て朝(あした)の紅顔夕べの白骨と変ずるならば其にて終りとならん。然して有形は無形となり、その無形のものは如何に変ずるやを考究し見よ。

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