覚者慈音1533   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1533
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十六    有機の因無機の因
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.11.17


 今少しく是を具体的に語るならば、Aの細胞とBの細胞と融合せば何々のはたらきをなし、Bの細胞とCの細胞とが融合してはたらかば、何々となるとの理論は科学上より説明もし又実験上成立することは容易なるべし。故にこのAの細胞が何処よりか生じ来り、又Bの細胞が何処よりか来り、互に融合して何々のはたらきによって或はC或はDのはたらきとなり、其が更にAとCと、或はBとDとの化合に依って、更に何々のはたらきとなる等々の理論は学理にて研究することは、敢て至難にあらざるも、そのAとBとの個々に持つ特性が、如何なる法則によって生じ来りたるか。又其を更に深く追究して化合せしめて
斯るはたらきをなさしむるものはそは何によって生じたるかを深く深く追究せば、学者はそは科学のはたらきとのみ答ふる他なかるべし。所謂言語の至らざる故に、智慧の程度は其迄にて終りとなる。この理を深く考ふれば宇宙の神秘は那辺にあるかに思ひ、惑ふならん。
 宇宙の神秘所謂無言詞の扉が開らかれざる以上、人智の及ばざるは是非もなきことならん。世人の考へにては肉体を有形とし精神を無形と思ひて考究し居るならん。是を我等に云はしむるならば肉体も有形にて精神も亦有形なりと教へるものなり。精神のはたらきは一見無形の如く思はるれど、唯言葉に現はして肉体より外に放出せらるるに至って、始めて有形の如く早合点せばそはあやまちなり。精神もはたらきて是を肉体より言葉に化せしむるものならば、言葉なき精神状態は既に有形の分野に置れたるものにて、精神は言葉なくともはたらきをなし居る以上、無形にはあらざる理も察することを得るならん。此有形の精神を一層深く掘り下げて無形に迄至らしむるにあらざれば、精神の原因をたしかむることは至難なるべし。言葉なくとも精神は動なりとせば即ち静にあらず。然りとせば静は那辺に属するかを是又深く追究するの要はあらざるか。現今の宗教者の如く唯世の中を建設するには斯くなるによって、斯くせざるべからずの教へのみにて、是を宗教として成立せしめ居りては、世の中の姿が刻一刻と変り行くによって古き伝統的の宗教には、世の中を建設せんと計るのみにては人心を惑はすのみにて、却て世を混乱せしむるにすぎず。宗教者も智慧をはたらかせて世の移り変り行くに対して其々の新らしき教へを説くにあらざれば、宗教によって世の中を建設することは至難なるは云ふ迄もなからん。我等は宗教者にあらざれば宗教者の分野にたち至って蝶々する必要もなけれど参考に迄語りをく。

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