覚者慈音1530   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1530
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十五    善とは何か悪とは何か
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.30


 善とは即ち慈悲なり。慈悲とは即ち善なりとの結果は成立するならん。善悪邪正悉く慈悲に化せらる。故に悪とは即ち無慈悲と云ふも亦理なるべし。されば善とは慈悲、悪とは無慈悲と考へなばすべては明らかとならん。此理より更に考へを深くせば慈悲の心を常に貯へ居る人は霊化なしたる真の人間なりと云ふも過言にあらず。霊あるが故にその力現はれて慈悲は面に現はる、霊に化せられざる人は慈悲の思ひは表面化せざるが故に、未だ修養の至らざることに心づきて、慈悲の思ひ常に生じ居る修養修行をなすに不如と思ふべし。博学多才の人にして慈悲の念面に現はれざる人は是正しき学者にあらず、真の人にもあらざるなり。是に反し薄学浅才の人にして慈悲心の強き人は即ち霊化したるが故に、真の人間の道を歩み居るなりと知りて、世の中の人を鑑別判断せば人選をあやまることなかるべし。博学多才の人にして無慈悲の人は悪人なりと思ふもあやまちにあらず。又薄学浅才の人にして慈悲心強ければ、是又善人なりとして交はりを深くせば傷けらるる恐れなし。故に是は善人なるが故なりと思ふべし。
 学問をして善道を歩まぬ人は死したる学問をなしたるにすぎず。無智蒙昧なりとも慈悲心の強き人は、神より愛せらるる博学者なるべし。浮世の事を数々知りたりとて其は物知りにすぎず。世の中のことを数々知らずとも慈悲の念を育て居る人は、斯る人より数倍なしたる一大事を修得したる大学者なるべし。何となれば神より受けたる大切なる霊を自然に化せしめて傷けず、そのまま育てあげたる徳者なるによって我等に云はしむれば大学者に相当すと云ふも決して理屈にあらざるなりと断言す。世人の俗言に「朱に交はれば共に赤し」と云ふ言葉あれど、慈悲心を完全に育て上げたる人は朱に交はりて共に赤く成らざる人なるによってかく断言なすものなりと悟りなば、世人は修養とは何を目的にて行ふかを考慮せば可ならん。兎に角善とは慈悲なり。悪とは無慈悲なりと考へて修養せんことを望む。

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