覚者慈音1529   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1529
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十五    善とは何か悪とは何か
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.30


 世人の常に使用し居る智慧は心意の智慧なるによって、その心意の智慧にて善悪を処断するは是中途因果となるなり。されば是を魂魄の智慧にかへし、更に霊の智慧に迄及ぼすにあらざれば、真の善悪を明らむることを得ず。霊智にかへして初めて原因を明らむることより考へを廻らし、深く掘り下ぐるにあらざれば真の智慧とはならざるなり。心意の智慧は中途のはたらきなるによってものの判断をあやまつ。又魂魄の智慧にても正しとは云ひ難し。霊智は即ちすべてを知り、すべてを明らむる力を有するは、従来より述べ来りたるところより推知するも明らかなる如く、善悪正邪はすべて霊によって処断なさざるべからずと知りて、一段の工夫をこらすべし。
 霊智は如何と云ふに霊智の善は即ち慈悲なり。慈悲心の湧き出づるは霊智より生ず。憎み妬む心は魂より生ず。故に魂智は中途の智慧に他ならず。俗に云ふ坊主憎ければ袈裟迄の憎悪は、是情心の極致が反対に変じたる結果なるが故に、生じ来るものにて、憎しと思ふも是愛の結果が意の如くならざるが故に変じて憎しみとなりたる故なり。愛するが故に憎む。憎むが故に愛すと云ふ。是又二つのものが陰陽の関係によって流転なし居ると考ふれば可なり。魂魄の愛憎はすべて中途因果の関係より生ずれど、些か霊智を感じて現はれ来る故に、心意の思ひとは異なるとも推して考慮工夫せざるべからず。真の善悪を知るには霊に帰せしめずば正しからざることは、先づ斯くの如き理あるによってなり。
 例へば前にも語りし如く甲乙二者の争ひに対しての場合、慈悲心より生じたる智慧にて相方をなだめなば、彼等は慈悲の力に敵する如き振舞は消滅して、二者共に慈悲の徳に化せられて円満なる解決は与へらるるは、是又道理なることも推して知ることを得ん。所謂慈悲の力は善悪に不拘共に徹す。されば慈悲心とは即ち善の極致なりとの理論は理屈にてはあらざるべし。

×

非ログインユーザーとして返信する