覚者慈音1527   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1527
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十四    自我心の整へかたについて
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.29


 行中に於て種々様々のことを思ひ浮べ或は悲しみ或は怒る等の心の湧き出づるは、即ち後方の過去に眼を向けたる故なりと悟らば、直ちに眼を前方に向けて大我の徳に浴さんことを計るべし。慈悲の心、感謝の心が常に脳裡を離れずして湧き出で居らば、其は前方に眼を向け居るしるしなりと感ずれば其にてよし。凡て業務に励み居る間は浮世の事に拘泥する事なく一向に前方を見つめて進べし。是業務にいそしむと云ふなり。行中にて浮世の事を彼是と考ふる如きは怠慢なりと思ふべし。行ずるものは斯くの如くならざれば怠慢の振舞ありては船は遅々として進まざるは当然なるべし。任務を果して後ならばたとえ浮世の汚れを見るとも其は従来と異なり真の慈悲、真の情に変じて世を救ふには適当の姿と変ずることは今更云ふ迄もなきなり。早く世を救はんとならば早く船を目的の地に運ばしめて大願成就せんことを我は祈るものなり。例へば航海中に於て故郷より訃報の電報を受けたりとせんか。己一人ならば知らず、今更船をもとにかへすことはなさざるべし。たとへ己一人にて中途より船を引き返へすとも、その訃報に対して何等救ひの実はあらじとせば船中に於て唯々思ひ惑ふのみならん。船を返へして益なくんば更に方向をかへて目的地へ運びての後にて帰るとも、其は同じ結果となるのみならず、却て利は己に多からんとの考へをめぐらす他なかるべし。人間の作りたる船の航路はややもすれば危険の恐れなきにあらず。されど神の作りたる航路は法の正しきが故に如何に船を運ばしむるとも決して危険の恐れあらざることは云ふ迄もなし。航路は法なり。凡て人間の作りたる法にはあやまち多けれど、神の定め給ひし法には永久不変にて決してあやまちあるものにあらず。法とは即ち法(のり)なり。法に従ふを是のると云ふなり。病を知って薬を説く。人の作りたる法は危ふし。神の作られし法にのらば決して危険を伴ふものにあらず。故に神の法は尊く又安全なることに思ひを致して、人法に背くとも、神法に背く事なきやぅ注意すべし。小我を運ぶ自我心は凡て神より作られたるものにて、是を神の法に従はしめず人間の法に従はしむるが故に、法は乱れて迷ひを多くす。されば神法に従はざれば望は達し難し。世人は法と云はば何か特別のものある如く思ひ煩ふこと多し。魔法も法なり。されど魔法は危険なる毒薬に等しく身を害し傷くること多し。神は魔法を忌み給ふ。されば何故魔法を作り給ひしかとの疑ひを起すならん。病を治するは良薬なりと世人は思ひ居るならん。されど度をすぐれば良薬も害薬となる理より推して考ふれば、魔法も用法の度強きが故なりとの理も頷き知ることを得ん。法とは自我心に相当すると、仮定して考慮し見よ。用法の如何によっては良薬ともなり、害薬ともなる関係に置かれあることを知るならん。自我心は善にも通じ悪にも通ず。故に是を善化の方向に向はしむることに努力せざるべからず。然るに自我心には凡心を伴ひあるによって、悪道には親しみ易く油断すれば知らず知らずのうちに悪道にをちて害薬となること多し。凡心と自我心とのはたらきは、肉体的なるが故に重量は重くして下方に引かるる関係上、悪道には墜ち易く善道には上りがたし。故に善道に上るには非常なる努力の伴ふことは当然なるべし。又苦痛なるべし。されど苦しくとも上昇の一路を辿りて喘ぎつつも善道へ善道へと上昇せざれば目的の地へ到達することは難きことを慮って屈せずたゆまず、自我心を善道に導き入るることに努むること肝要なり。是自我心の用法の方法と心得て唯々善は神の心なりと考へて、是に同化せしむることに努めなば其にて事足る。

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