覚者慈音1526   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1526
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十四    自我心の整へかたについて
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.29


 即ち子を思ふ親の心は慈悲なるべし。故に弥陀は慈悲心より衆生を救はんとの思ひより大願を起して衆生の罪を己に引きうけて、然してすべてを救はんと云ふとの教へは生じたる、是他力の法と云ふなり。何れにもあれ求むるところは仏心を指すならん。是は仏教の教へなれど我の語らんとするところは是等の道理を引用して、世人を導く資料に供したる迄なり。とにかく小我の我を大我の我に化せしめんとはかる方便の教へと知らば可ならん。宗教にもあれ又宗教哲学にもあれ、易学にもあれ、凡て帰するところは同一の結果ならではかなふまじ。すべて極致に達しなばその後は神の道を神によって歩ませらるるが故に、極致以上の事柄を知らずとも要は極致に達するにありと考へて、修養せば其にて事足る。自我心とは即ち船と心得て、小我を大我に運ばんとはかる用具の如し。故に自我心は健全無欠なるものに作り置かざれば、途中難破する恐れあらん。されば自我心を清くせざれば様々の汚れに船は腐蝕して航海の用具とならざることに心して、常に破損の箇所を整理なして浸水の恐れなきやぅ工夫せざるべからず。汚れより生ずる喜怒哀楽の思ひは、是皆船を汚損せしむる垢に他ならず。怨み妬みなどは船の汚損に等し。故に是等の悉くを修理して堅牢なるものに改造して、以て安全なる航海をなすにあらざれば、小我を大我の岸に船づけすることは難しとの心掛けこそ肝要なり。
 仏教には帰依三宝と云ふことあり。三宝とは仏法僧の三っを云ふなり。今是を人心にとりて考へ見ば霊は仏に合ひ、自我心は法に合ひ、小我の凡俗は即ち僧に合ふと心得て、大我の霊、自我心の我、小我の我、此三っを一体化しむるは、即ち三宝の一大事に等しと思いて工夫の道を計ること肝要なるべし。世人は常に自我心と小我とを一体化せしめ居りて、大我の方向に向はざるが故に小我より自我心へ思ひを致して、其が四六時中凡ての異柄を処理し居るため、唯遊び船の如く右往左往なし居るにすぎず。よって何時かは大海に乗り出すことを計らずして、狭隘なる湾中に在りて漂ひ居るに他ならずと、先づ考へて早く大海の方向に乗り出す用意をなさざれば、大我の岸へ運ぶことは難からん。小我と自我心と一体化して遊山船にて生涯を送るならば、是即ち動物性にて終りたる結果と考へよ。自我心の強きは小我の凡心がはたらかしむる故なり。故に凡心と自我心とは常に一体化なし居ることは、世人が己惚れの心を起し世を怨む等々のことはみな、凡心が自我心の船に乗りて右往左往なし居るが故なりとのことに心づかば、其にて修養の道は自づと開らかるる道理あることに注意留意せば可ならん。然して船を大我に進まするに従ひて悪人を見ては憐憫の心を起し、善人を見ては美しと感じ来るならば、其は既に遠方に当って大我の岸を見つけたるに等しと思ひて、益々腕によりをかけて船を大我に運ばば軈ては望の岸に達することを得るなり、よって修養修行の間は後方の過去に眼を向くることなく、唯々前方にのみ眼を大にして大我へ大我と進まば其にて自我心の役目は果さるると心得なば可なり。  

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