覚者慈音1525   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1525
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十四    自我心の整へかたについて
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.28


 仏教にて仏凡一体の教へあり。果して仏凡一体の境涯に達するかを些か考へ見るの要あらん。仏とは悟りを云ふにて、凡とは悟らざる迷ひのものを指すならん。然りとせば悟らざるものより悟りの方向に向はしむる法にて、一体の境地に達せしむるか、或は是と反対に悟りたるものを導きて化せしむるかの二法によって、何れかを求めざれば仏凡一体の境涯には達せざる道理あらん。我身は一にて二あるものにあらず然りとせばこの一つの我身に悟りたるものと、悟らざるものとの二心が宿り居るかを、先づ考へのうちに入れて工夫せざるべからず。我身は一にてその一体の中に仏凡二者が宿り居るものとせば、凡を遠ざけて仏にのみ化せしむるならば、其にて凡心は消滅し仏心のみ生くるとのことも亦考慮に入るる必要もあらん。凡心をすてて仏心を求めんとせば、ここに仏凡の争闘となりて肉体の苦患は一層深くなるは是又道理なるべし。凡心は肉体にて、仏心は心霊なりとの事柄より考慮せば、肉体に囚はれ居らば凡心は強くはたらき、仏心は遠ざけられて何日かは大悟することは至難なることも世人は知り居るならん。さればこそ修養修行せんとの念は生じ来りて、此処に心身のなやみは絶えず繰り返されつつあることも亦経験するところならん。これを思ひ彼を思ふ時ここに何にかの工夫なかるべからず。
 世人にして仏心を験することを得たるならば、凡心は是に従ひて化せらるることも当然なりとの思ひは生ずる筈なり。又凡心のみにて何かもの足りぬ心持ちより他になにものかを求めて、其によって凡てを明らめんと計り居るところより察すれば、凡心は仏心の何処かにあることに気附きてのたのみより、求むる心に変り居るにてはあらざるかとの思ひを廻らし居ると考へざるべからず。我は凡なり。されど我にも仏心ありとの思ひより、是を一体化せしめんと計るならば、ここに何か方法のあることに意を用いざるべからず。
 仏は凡てを知り、凡てを明らめ居るとせば、先づたのむものは仏なるべし。されば凡心を是に従はしめんがためには、仏心のもとに凡心を入門せしめて教へを受けざれば、凡心は進化せずとの思ひより、先づ仏心に対して教へを受けんと願ふの法を考へざるべからず。仏教にてはこれを自力の法と云ふなり。是と反対に凡心をそのままに放棄せしむるは、親として子を教育することに留意せざるが故に、何日迄も放棄することをなさずして親より子を育つることに努力するを、即ち他力と称し居ることも亦世人には察するならん。

×

非ログインユーザーとして返信する