覚者慈音1528   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1528
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十五    善とは何か悪とは何か
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.29


 相対性の世界には善悪の区別ありて其が為に迷はさるること多し。世人の考ふる善悪はすべて身勝手より生ずる善悪を考ふるが故に、善と思ふことも一方には悪と見られ、又悪と思ひ居ることも結果に於て善と変ずることもあるがために、稍もすれば何れが善か、何れが悪かに思ひ迷ふこと多からん。智慧によって善悪を考ふるならばそこに智慧の程度の優劣によっては善を悪なり、悪を善なりとして論議すること多きは我、しばしば見聞するところなり。智慧すぐれたる者の為に説き伏せられて正しき行ひにも不拘、是を捨てて悪事を犯す人是又すくなからず。されば智慧によりて善悪を定むる時はその善悪の何れかを判明することは至難なり。又世人が日常行ひ交はりつつある人と人との関係に於て、一方にくみせば他方より嘲りをうけ或は怨るることすら見受けらるるなり。
 例へば甲乙の二者争ひ居る時、甲にくみすれば乙は怨み、乙にくみすれば甲は怨む如く、善も一方的となれば、却て他方より悪と見らるることも多からん。是善にあらず。又悪にもあらざるが故なるべし。甲と乙との争ひに対して二者共に喜ぶならば、其は善にして二者共に怨むならばそは悪なるべし。所謂善方に悪あり、悪方に善あるが故なり。甲と乙との争ひに対して二者共に喜びて従ふ底のくみしかたならば、其はすぐれたる行ひならんも斯ることは智慧の劣りたる者の為し難きことにして、是等を完全に説き伏せて和解せしむることは、智慧のすぐれたるものならではなすことを得じと世人は考ふるならん。故に善悪は智慧にて判断せずば知ること難しと思ふも、是又一理ある考へなるべし。この事柄に関して聊か説明するところあり。そは他ならず。善悪の区を明らむるには智慧の必要あることは論議の余地なけれど、因果論の法則より考ふれば、智慧によって善悪の区を定むることは、即ち中途因果より生ずることに思ひを致して、今一段原因に逆上って考へを廻らさざれば、是をたしかむること困難なりと知るべし。所謂智慧を用ゆる以前に、何か潜在なし居るものを見出して、其によって智慧をはたらかすならば真の善悪は明らめらるる故なり。この事に関しては従来述べ来りたる如く、霊より魂魄へ魂魄より心意へとの順序より、先づ考察せずば原因に逆上ること難し。

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