覚者慈音1520   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第三巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1520
未知日記 第九巻 因果論       
第三の巻
心霊篇 
第四十三    空間に種子を蒔く法とは如何
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                 2019.10.26


 空間に種子を蒔けよと云はば世人はむづかしく考ふるならん。さりながら是はむづかしき事にはあらず。聞かさるれば訳もなきことなり。然るに世人は日々の行いをすべて己が修養とはせず、唯悪戯事の如く果し居るが故に、修養と行ひとは常に個々別々となり居る感なきにあらず。例へば他人にものを贈る。是を修養の方面にとり入れて一体化して考へ見よ。他人にものを贈るは即ち空間に種子を蒔きたりとして修養の法に思ひを致して考へ見よ。他人にもの施さば他よりも亦我にかへる結果とはならざるか。己に出でて己に返るに他ならず。是は品物等のことにて他に品物を送れば他人よりも亦品物のかへる如く、是が空なるものならば又空なるものの我に帰り来ることを考慮せしことはあらざるか。よく聞くところなるが情は他人のためならずと云ふにてはあらざるか。情とは品物にあらず。即ち空の事なるべし。或場合情は品物となりて返ることもあらん。他人のためになせし情は結果に於て己がためになるならば、是も亦我より出でて我に返り居ると同様の関係なるべし。我は空より出でて肉体と云ふ品物に変じ居れど、その品物が更に滅却して果は空に返る結果とならば、是又空より出でて空にかへりたる姿ならん。神の力によって得たる自我心即ち我は神の力を吸収して小我に送り、小我は是をうけて更に大我へ大我へと返すことを、空間に種子を蒔けよと云ふなり。他人に情を施すも空間に種子を蒔くに等し。自我心とは恰も水揚げポンプの如く地下の水を吸ひあげて空間へ上らしむる用具に等し。吸ひ上げては吐き出す如くポンプは己に取り入れて又是を他に送る。自我心は即ち此任務をなすものにて帰するところは空間へ空間へと水を運ぶ。是種子を空間に蒔き居ると見なして是を肉体に取り入れて修養の法を考究せば道は従って開らかるるならん。世人は宝を授かりて居ながらその宝を箱の中に封じこめて宝としてのはたらきをなさしめざるが故に、宝の持ち腐りとなりて終ること多きを悟らず、然してその受けたる宝の箱にのみ心を奪はれて宝を大切に秘蔵せんとして箱にのみ心を奪はれ居るは、恰も肉体にのみ重点ををきて宝のはたらきを封じ居るに他ならず。故に箱より取り出して宝は宝としてのはたらきをなさしむることを考へみよ。然る時は空間に種子を蒔く理も従って覚知することを得ん。徒ら宝箱を抱えこみて箱に蒔絵を施し錦の袋に納めて、蔵中深く閉ぢこめ置くことを止めよ。宝とは何か。箱とは何かは今更語る迄もなく世人は既に悟り居るならん。

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