覚者慈音1504   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1504
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
第三十八    小我はこだまして大我となるの理論
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
                2019.10.19


 こだま会に於て語りし如く世人の世界は幼稚園に等し。然して小学中学大学と階を重ねて上るにあらざれば、神界には達し難しとの談話の如く、是を世人の肉体について語るならば、幼年時代少年時代青年時代壮年老年と順次自然の法則に従ひて成長なすことより先づ考究し見るべし。草木に於ても亦この関係あらん。すべてのものには順序あれど、そは一時的の現象に他ならず。先づ是等の道理をわきまへて小我より大我に至る方法に適用すれば自づと了解する事を得ん。たとへば世人の中に於て一つの祈願を偶像になしたりとして説明することとせん。例へば百日の祈願をなして日々拝みを重ぬると仮定して考へ見よ。百日の間は何等験は現はれざるべし。是は先づ最初の一日より百日の間心願をこめて祈念なし居るが故に、一日一歩と次第に進みて軈て百日の間に念力は強くなり行くに従ひ、最初の一日と最終の百日との間につみ重ねられたる念力が、小我をして徐々に大我に運びたると思はば可なり。然して百日に至り漸く小我と大我と合体するによって、大我の力は小我に及びて、はじめてその目的を達することを得るなり。故に是を簡単に説明せば、小我は一歩々々進みて大我に和し、大我は霊の力を受けて小我に教へ示めしたるに他ならず。故に我より我にかへる結果となり居ることも推して知らるるならん。願望の成就せざるは、即ち未だ大我に達し居らざる故なり。然るに世人はこの理を知らず。百日の願望にて成就せざればその神をうとんじて又他の神に帰依す。然して他の神に祈願して目的を達しなば、二回目の神は勝れたる力ある如く思ひ居れど事実は然らず。最初の百日にて、成就せざるは己が信念の未だうすき為にて、其が又百日と信念を強くなすによって、はじめて願望は達しらるる結果となるも、これ即ち小我は大我に和したる故なりと知らば可なり。信念の力を刻一刻と強くなすにあらざれば、大我の霊に和することを得ざる道理より、是をよくよく己が心にしみ入らせて、念力を強くすることよってはじめて好結果をもたらすことを、よくよく工夫勉強せずば、身心一体の境涯には入ること難しと思ひてよくよく修行すの要あらんと我は思ふなり。我、かく迄信力を強くなし居るに不拘、未だ何等のしるしなきは我の罪業深き故とか、或は我の心が未だ神に通ぜずとかよく語り居るをきく。かかる愚問を口にせんよりは寧ろその時間にて一遍の拝みをなすことを忘れずば、軈ては仏凡一体の境地となるは火を賭るよりも明らかなるべし。世人は信仰は拝みする間のみ神を思ひ出し拝みせし後は直ちに神を忘れ居るが故に歩みは遅々として進まざるなり。朝起きて夜いぬる迄己が職業に励みつつ、その職業をなし居る間もみな神の前にて行ひ居るとの信念を以て進み居らば、行は従って進み身心共に霊に通ず。此事はしばしば貴尊方も語り居らるるに不拘、世人はこれを等閑に附してなさんとせざるが故に、願望は果されざるなり。

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