覚者慈音1485   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述


苦しさや
悲しさや
それを放蕩で紛らわさずをえない苛立ち

(弟の放蕩を一滴の慈悲の涙で癒す良寛)


覚者慈音1485
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.07
第三十二    自然性接続根について


 或一家に二人の男子ありて兄は何か悟る処ありて出家し、弟は其家を相続なし居たりき。然るに弟は放埓者にて世間の爪はじきを受け、彼の父母も是を悲しみて種々様々意見をなしたれど改心の色更になく、放埓のつのるのみなりければ、出家の兄をよびて意見をなさしめんとせし時、兄は帰り来りて弟と団欒なし居て意見もせず、時来りたれば寺に帰らんとて旅支度なせしに、弟はわらじを兄の足にはかせやり居たりしに、己が頭に何かつめたきものを感じて顔をあぐれば、兄の眼より落る涙なりき。是を見たる弟は大地に手をつき頭を下げて兄に従来の不心得を謝して別れしが、其後全く悔悟して不善をなさざりしと云ふ。此話は世人も知る処ならん。兄の一滴の涙は即ち慈悲と哀憫の涙なるによつて、弟は是に反抗する心を全く失いてかくは改心なしたるなり。故にこの例話をよくよく翫味して世人はあだをうけても敵愾心を抱かず、却て是に哀憫の情を以てむかへなば、彼は必らずや汝に化せられて善者とならん。然して彼も全し。自らも安全にて、両者が共に世を益する結果となるは必定なるべし。もしあだする心あれば何れか弱はき方傷きて倒れん。彼を倒して何の益かある。倒されたるもの又汝を憎む。然せば互に憎み憎まれて世は治まるものにあらざる理は、語らずとも世人には理解なすことを得るならん。正しき修養とは是なり。もし汝にして悪人を憎む心起らば、是は外部にむけられ居る反抗心なりと気附きて、速にこれを哀憫する心に変へよ。然せば凡ては内部にはたらく。悪人を憎む心は誰もがなし易し。されど是を哀憫に変ゆることは容易の修行にてはなし得るものにあらざることは当然なれど、是は修行の方法なりと考へてひたすら心を変ゆることに努めなば、何時かは習慣性によって正しく変更することを得ん。是修養の一大事と心得て行ぜよ。然することによって外には我を害するものなく、我と彼と対立して世を治むるものとならん。此理は火を賭るよりも明らかなるべし。
 世人は然とは考へざるか。信力は善にもはたらき又悪にもはたらく。故に正信は善に動き邪心は悪に動く。是即ち信力の現はれなる事に留意せよ。大悪人は大善人となり。大善者は又大悪人となると説かれしも是信力の現はれに他ならず。正信邪信共にその程度に応じて信力ははたらくと考へて、その信力をつくるものは自然性接続根の用法一つによると考へて行ぜば可ならん。世の中には何時も語る如く悪人と云ふものはあらざるなり。悪人と雖も己が身を愛するが為に悪を行ふ。然りとせば愛の力は悪人にもそなはりあることを考へ見ば、悪人なりとて是を憎まず、哀憫すれば必らず同化することを考慮に入れて工夫し見よ。然せば必らずや彼もその愛の力に化せられて正道に足を入るるならん。かくする事によって正しき平和は永久に持続する道理あらん。よくよく考慮すべし。不平あらばその不平に対して己が心は外部に芽をのばし居ると考へて、其芽をつみとりて不平の心を平に変へよ。怒る心は即ち外部にはたらく。是も亦喜びに変へよ。喜ぶ心も亦外部にあり。外部の喜びは是又真の喜びにあらず。故に是もつみとりて唯哀憫に変へよ。慈悲に変へよ。世人の喜怒哀楽は悉く外部に芽を出し居ると考へて是をその事柄に応じて考慮し、然してその芽をつみとりて内部へとはこびなばそれは一種の肥料なるが故に、養分は茎と根にひろがりて発育は益々全きを得る道理を察して深く行ずることに努めんことを冀ふ。

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