覚者慈音1482   未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1482
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.06
第三十一    通力について  其の二


 世人は直き心清き心にならんとて日々の世渡りをなし居れど、直き心清き心には容易に化するを得ざるならん。又直き心清き心とは何れの行為が然あるか、又然らざるやにすら迷ふならん。かかる事にては信力は得がたかるべし。教へられたり或は聞かされたりなどして其に心をうつし居るのみにては、恰も枝より枝にとび移る鳥の如くにて、何日かは天空高く安全なる処に巣をくみ塒(ねぐら)を求むる事は難かるべし。故にまことの信仰は得られざるなり。信仰信心得られずば念力も亦うすく、法力通力是に従ふ。されば基礎の一大事は即ち信力に重点をおかざるべからず。信力強くなりてはじめて念力法力通力又是に伴ふは異論の余地なかるべし。故に四大の力を完全に組織せんとならば、先づ基礎に相当する信力に重点ををかざれば甲斐なき事も推して諒解するを得るならん。


第三十二    自然接続根について


 自然性接続根とは如何なるものを指すやと世人は迷ふならん。是はむづかしき事にあらず。先に語りし摩擦魂と云へる事に対して貴尊が述べられしことを世人は記憶なし居るならん。されどここに語る自然性接続根とは摩擦魂に似て摩擦魂にあらず。さりながら仔細に是を検討すれば即ち摩擦魂に類すると考ふるも差支なからん。されど我の語らんとなすは接続根の中に含まれ居るものにして、所謂摩擦魂を生ぜしむる根なりと考ふれば、自づと合点する事を承知す。よって特にかかる仮名を附したるすぎざるなり。世人はよく口になし居る反抗心とか或は反射力とか称へ居る言葉に対して我はかく仮名をなしたるにすぎず。所謂種子を地に下せば、一方は地中に根を下し、一方は地上に芽を出す。その芽と根をつなぐものを、即ち自然性接続根と名づけたるものなり。地中に根を下し地上に芽を出す。是をつなぐものは根と芽の中間にあるによって是を接続根と仮称したるなり。所謂斯我の根に対する彼我の芽をつなぐものは何かを検討し見るべし。是を人身にあてはむるならば肉体と心をつなぐ一つの根あるによって、不可分の関係となることは世人も察することを得るならん。世人にはこの意味を知りながら等閑に附して重点を是におかざる故に、正しき信仰の力は得られざるなり。
人生れて直ちに根を芽を生ぜしめんが為には是をつなぐ自然性接続根のある事に心し見よ。人には反抗心と云ふ悪戯者ありて是を是正するに苦しみ居るならん。

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