覚者慈音1481  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1481
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.05

第三十一    通力について  其の二


 先にも語りし如く、信ずるも我なり。所謂我と我との対立なりと説きたるはここなり。小我より大我と云へる言葉を今少し変更して小我を斯我(しが)、大我を彼我(ひが)として研究し見よ。所謂斯我より彼我に至るにあらざれば真のさとりは得られじとの理は宗教者の言によっても明らかならん。所謂仏教者の云ふ波羅蜜とは斯岸より彼岸に至ると云ふにてはあらざるか。彼岸とは彼我なり。斯岸とは斯我なりとして考察せば、自づと理解は得らるる道理あらん。斯我をはなれて彼我に至るにあらざればまことの直きさとりは得られずとの道理なるべし。斯我は弱はし。彼我は強きことを説きたるなり。斯く考ふるとき斯我と彼我の間には何ものか其処に一種のへだたりのある事は又うなずかるべし。所謂斯岸より彼岸と云へばその間に、大なる海のある事を教へたるならん。斯我と彼我との関係にもやはりその間に障碍となるべき隔りの海とか、或は空間とか或は高き山けはしき道のある事を悟らざるべからず。是斯我と彼我との経路なるべし。然らばその経路とは何かを世人は考へしことありや。此処に特に汝等に注意しをく事あり。そは他ならず。世人は日々の行ひの上に現はれ居る事柄に対して、無関心にて放棄なし居る様々の現状を我等は見て、余りに智慧なき振舞かなと慨嘆なし居ること多し。最も大切なる事を認知せず、唯枝葉にのみわたりて其に依て正しき信を得んとはかり苦しむとも、そは決して成就するものにあらず。所謂中途因果関係のみに囚はれて、根底に重大なる種子のある事に着目せずして等閑に附し居るを云ふなり。よって我、是より語る事柄は世人にとりて最も重大なる教へなれば、深く々々是に心をとめて聞くべし。然して是より語る事の言葉は大切なる事なれば、唯うかつに聞き流すことをなす勿れと改めて注意するものなり。
 世人は如何にかして信力を得んとはかり、又信仰を得んと苦しみ居るも得られざるは何故かと云ふ理に暗き故なり。最も世人のなやみは求むれば近き処にその因のある事を知らざるにも基因すれど、日々の行事の中にその種子のある事を知りながら、其を是正する事を考へざるによって素直なる心清き心とはならざるなり。其は何か。曰く、自然性接続根(仮称)のはたらきあるによつてなりと教ゆるものなり。此事柄は講を追ふてくはしく語るべけれど、先づ是を知りをく要あらんと思ふが故にここに掲げをく事とせん。自然性接続根とは何か。世人はこれを単に動物性本能と唱へて、余りに重大視なし居らざることを知るによって、是に対して特に自然性接続根と命名して、此動物性本能の原因を世人に教へんとするものなり。所謂動物性本能と称へ居るを、我は特に自然性接続根と命名なしたるは、是には深き意味あるによってかくは掲げたるなりと知るべし。話をもとにかへす。

×

非ログインユーザーとして返信する