覚者慈音1480   はじめて未知日記を読まれる方への手引き 其四    衛藤慈声

未知日記(みちびき)について    其四
                    衛藤慈声 著述
                    2019.10.05


伊東慈音について


 未知日記の著者、伊東慈音は奈良県吉野郡川上村字武木に生れた。使命を全うした彼は昭和二十八年十二月十八日、七十五才にて昇天したのであった。
 慈音は父四郎の死後、その名を継ぐ迄は幸吉とよばれて居た。父四郎は商才に長け巨富を蓄積してたので自然その生活も派手であった。代議士として国会に議席を持ち、交友関係も社会の広きにわたった。
 然し不幸にして少年時代に、酒乱の兇刃をうけ一眼を失った幸吉は、残る一眼にも自信を失ひ、遂に意を決して進学を思ひ止まり、東洋音楽を一生の職業として択ぶに至ったのである。然して彼が択んだ恩師中木検校は当時筝曲の第一人者で、東洋音楽に精通し、人物もすぐれた名人であった。幸吉の素質をよくみきはめた彼は、その蘊蓄を傾け惜みなく且つあますなく己の持てる一切を此弟子に伝へて指導しその成育を助けたのであった。
 幸吉がわづか四年余の短日月の間に東洋音楽の秘伝秘訣を授けられ、他の弟子達の誰一人及ばなかった音楽療法の原理を我ものとなし、游魂すら自在に行ふを得た事実が恩師の弟子に対する愛情を証明して居るのである。もとより東洋音楽は先天の易学、三対四律の法則に依って組織された大気音波観測法である。楽器の演奏の如き、遊芸としてのみ扱ふは全く初歩的技法にすぎぬ。然して二十歳になるやならぬに、伊東中光大検校として幸吉は師より独立を許されたのであった。
 幸吉は幼時より母の感化をうけ、観音を信仰して、年少の頃より座禅に励んだ。大阪在住中、中木師の許にて音楽研究中も、座禅を欠かすことはなかった。然して二十歳前に既に彼は魂眼を開らいて居た。
 彼中光大検校が奈良から東京に移住したのは三十代の半ばをすぎて居たが、其は彼の芸術を高く評価した村井絃斎や大隈重信伯爵等のすすめに依ったものである。明治の末期から大正年代にかけて東京に於ける彼の演奏活動はまことに活発をきわめ、時の名人会にて声明音楽の秘曲を披露したり、大隈侯爵家や岩崎男爵家が外人を招待した時には屡々中光大検校に秘曲を演奏させてもてなしたといふ。中には東洋音楽の本質に触れ得たとて狂喜した外人も居たといふことである。その証となる手紙が今も伊東家に保存されてゐるのである。
 然し彼の此世に生を享けた使命は音楽以外の処にあった。三十才をすぎて間もなく、本来短命の生をうけて居た彼をして、使命達成に必要な年月を延ばすために、残る一眼の明を取り上げられ全盲となって居たのである。(三世と四世論参照)従って次第にこの世での演奏活動を中止すると共に音楽からも遠ざかったのである。殊にインショウ、ミキョウ貴尊(後のセイキョウ貴尊)の指導をうけ、心意魂魄霊の五性を一如一体化して霊化をめざす修行は、文字通りの難行苦行であつた。常人の追従を許さぬ強固な意志の人にして初めて可能な修行であった。骨身を刻るといふが、そんな言葉であらはせるような生やさしいものではなかった。
 長い月日の間には又様々の曲折を経て、遂に目的を達した彼は、霊耳を以て貴尊方や教主の語る論説を聴取し、自らは行じて其を実証しつつ、其片手間に是を記録して後輩者のために残したのが未知日記全巻である。
 然し彼自らはその生存中固く口をとざして何事も語ることを許されなかったのである。無為の常人としての仮面を脱ぐことを許されなかつたのである。何故なら彼の到達した霊化の事実、その実力は天眼通地眼通なる言葉に依って表現される自由自在の実力は、その片鱗を示めすだけで大衆を惹きつけ、果は無智の大衆の祭り上ぐる処となり一宗一派を形成するの余儀なきに到る経路が見えすいて居たからである。今日世上に存する宗教を「有相」即ち「未だその極ならずして相は有する」と仰せられる教主は大衆のために、或種の事情を憂慮されたのである。教主の真意は未知日記全巻を我ものとなし得る人々のみに
理解され納得されるものである。以上まことに簡単で不満とされる人々も多いことと思ふが、慈音の地上生活の詳細は「覚者慈音」にゆづり他日を期したいと思ふ。
           
                               衛藤慈声 



以上は「感応論」の末尾に掲載された慈声さんの言葉です。尚、「覚者慈音」は当ブログの第一回目に掲載されて居りますので御参照ください。

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