覚者慈音1476  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1476
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.04
第三十    通力について  其の二


 たとへば仏教の大般若経六百巻を日々となへ読み居る人はあらざるべし。是を簡単に転読して其によしとか、或は法華経八巻を読まずとも題目をとなへ居らば可なりとか、或はイエスによつて神と手をつながば可なりとか教へ居るは、是即ち其等の理をきはむれば根は一にして所謂信念を深くして法によって通力を得んとする、一種の方策にすぎざるべし。現在の学者に対して六百巻の般若経を転読し或は法華経の題目を唱へたるのみにて、その経の本文を読まずとも其にて目的は成就すと語るとも、是を理解把握する人はすくなかるべし。根にかへりて其理をきはめたる人にしてはじめてその意味を解する事を得るならん。経の意味は知らずとも可なり。唯その題目の中に全部の意味は含まれ居る故なりとの意味を信じて、となへ居るは是法力ならずや。然してその法力が信念の程度に応じて他に通ずるとせば、是即ち通力とは信念の程度が法の上に現はれたる結果なりとの理に化せらるるならん。いささかこみ入りたる説明にて世人の脳裡にには徹底せざるうらみあれど、よくよくその大意をくみとりて己の智慧をはたらかせて考ふれば、自づと諒解の道は開らかるるならんと思ふが故に、かくも婉曲なる論旨を語りしにすぎず。最初に語りたる水は方円の器に従ひて通ずと云ひし意味を世人は如何に考ふるや。世人の智慧にては是は通じたるにあらずと思ふならん。方円の器とは何か。所謂汝等の肉体を指したるなり。水とは即ち智慧を云ふなり。智慧は程度に従ひて通ず。故にせまき肉体にはせまき智慧となり、広き宇宙には広き智慧となる。故に方円の器に従いて通ずとの意味を語りたるなり。水清うして地に徹す。此意味も従って諒知することを得るならん。智慧の根源は魂なり。その魂を濁し居らば智慧は通ずるものにあらず。魂を清らかになし居てはじめて智慧の力ははたらく。故に水清うして地に徹すと云ふなり。されば「鳥飛んで鳥の如く魚踊って魚の如し」と云ふもうなずくところあらん。己の分野に従ひて其によって行動なし居らば、人は人たるべく、畜類は畜類たるべしの理なり。魂を清らかにしてその清らかなる魂によって智慧を無限大にのばすならば、如何なる障碍ありとも是を貫徹する力はそなはる。心眼心耳を開きて天空の高きを見よと云ふも是通力ならでは見聞することは難かるべし。地も亦然あるなり。世人は肉体と云ふ土壌に魂と云ふ種子を下されて、是を発育不良に終らしむれば、其は天分を全うしたるにはあらず。通力とは所謂是等の事柄を指すにて別段不思議なる事をなすにあらず。天かけり空かけりなど云へることは、みな枝葉にしてとるに足らず。其等の事柄はみな一種の魔法にすぎざる故なり。魔法を会得して様々なる奇術を行はんとならば、先づ智慧の力を拡大強化せよ。然らばかかる事を特に学ばずとも自づと理解する事を得ん。魔法は一種の手品にすぎず。さればかかる事に留意せずまことの通力を得んことを願ふべし。

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