覚者慈音1474  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一      インショウ、ミキョウ貴尊講述

手塚治虫作 火の鳥 我王より


覚者慈音1474
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.03
第三十    通力について  其の二


 凡人は未だ稔らざる樹木なり。かるが故に完全なる稔りを得んとて肥料を貯へ、然して見事なる実を結ばせんことに専心努むるにあらざれば非凡の人とはならざるなり。如何に励み学ぶとも我等は凡俗にして到底聖者とはならずと諦むる人多し。人と生れて人の道を知らず。又人の何たるをも知らざるが故に修道せんとはなさざるなり。如何なる樹木も作りかた育てかたの如何によって完全なる結実を得もし又、樹木のみふとりて結実を全うせざる事もあらん。我等は凡人なりとてすべてを等閑に附するは是人の道をふまざる愚者なり。人類には人類として皆一様に与へられたる一つの具備あるによって宗教者の云ふ如く人類是一なり。又仏凡一体なりと説き居る事に着目せよ。然して理解したらば他に心をうつさず一心不乱となりて勇往邁進せんことを望む。いささか説教めきたる事を論じて世人の心に傷けたることを謝して、さて通力とは如何なるものを指すや。是を簡単に説明せばひきしぼりて放ちたる弓矢の如し。もし此矢を二本くみ合はせて一時に放つならば其は通ずるものにあらざる事を考へ見よ。一本の矢は放たれたる処に達すれど二本を同時に放つならば半途にて落矢するは理なるべし。通力とは所謂一つの力を云ふなり。一念こってはじめて通ず。迷信妄信の如く思はるる易学に於てすら一心をこめて占へば必らず何かのしるしは現はれ其によって新らしき智慧を生じ、その智慧によって不可能と思ふことも亦成功することもあらん。我と神との問答の如く世人は考ふるならん。されど実は然にはあらざるなり。我に問ひ我に答へ居るにすぎず。是自問自答の法の結果の現はれなりと知らば可なり。我と神と考へ居る事も帰するところは我と我との対立となり居る事に留意せざれば通力の真を究むる事は難し。信ずるも念ずるも法を行ふもみな我より我の対立にして通力も亦然あるなり。すべては我なり。他にあるものにあらず。世人は不思議なる現はれを見てそは神のなされし事と考ふるはあやまりなり。

×

非ログインユーザーとして返信する