覚者慈音1472 未知日記 第九巻  因果論 人身篇一 通力について インショウ、ミキョウ貴尊講義

覚者慈音1472
未知日記 第九巻 因果論       
第二の巻
人身篇二 
        インショウ、ミキョウ貴尊講述    
                2019.10.01
第二十九    通力について


 信ずれど行ひ難き事を我等はすすむるものにあらず。世人の行はざるは信ぜざるが故なり。希望のみはありて行ひに移さざるは是又信なきが故なり。世人はよく口する真と思へど行ひがたしと云へる言葉を我等耳にす。然とは思へど行はれぬは信ぜざるが故なり。餓ゆれば喰ふにはあらざるか。欣情が云ふ如く珍味をならべられて箸とれずと云ふは是信なきが故なり。又飢えざるが故ならん。珍味ならずとも飢ゆれば喰ふにはあらざるか。この理をよくよく考慮し見よ。喰ひて腹を充たすは確定信仰の現はれあるに依ってならん。所謂不確定なるが故に信を得られず。信を得られぬと云ふは喰はざるによってなり。喰ふべし。喰ふと云ふは行ひに移すことを云ふなり。むづかしきことにあらず。加熱したる溶鉱炉に手をぬらして一秒間入るるとも火傷するものにあらずと聞かされて世人は其事を直ぐ実行に移し得るや。もし此溶鉱炉に水にぬらしたる手を入れ直ちに引き上ぐるも、其にはその水と火との間に一種の化学作用によって障害を与へざる事を、学理上より研究して知り得たる人ならば直ちに実行に移すならん。されどその理を知らざれば決してかかる危険をなすものにあらず。又あやまてば己不具者となる恐れを抱くによってならん。我等が下界にありし頃加熱したる鉄棒をしごきていささかも火傷せざる法術を衆人に見せて、その法力によつて信者を得んとなしたることありき。かかる事が学理より見て何等価値なき事なるに不拘、衆人の無智なるを応用して信者を得んと計りたる我等の振舞こそ実に愚のきはみなりと、我等身に汗するを覚えたる経験はあるなり。世にはかかる事をなして愚人を惑はす輩は多し。相方共に慎まざるべからず。いささか枝葉にわたりたる如き感あれど是等は通力を知る一つの材料なるによつて、かくは語りたる迄にて決して枝葉にわたりたるにはあらず。学者、諒せよ。

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