覚者慈音1444  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一    インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1444
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.23
第二十  精神信仰について

        そして迷信信仰について


 迷信信仰にも二種あり。此迷信の中にも胎教と又は見聞より生ずる二道ありて父母が肉体信仰に依て得たるものが胎教となりて幼時より唯何となく父母のなすがままに拝みをなし居りて其が一種の形に現はれて育ちたるにてややもすれば神懸りと称する如き現象を現はす。又見聞より受けたるものが何かの動機にて一種の錯覚を起し、その錯覚の有様が適中したるに於てここに一つの信仰の動機となりて現はるるを云ふなり。精神的信仰のうち肉体が虚弱にて智能すぐれざる人にこの二つの何れかの現象が現はるること多きが故に、幼時時代には神童とかもてはやされて父母は其に依て多くの信者を得て、遂にはその子の生涯をあやまたしむる如きこと我等屡々見聞す。又中年にてかかる現象を得て其に依て己自らは神なりと思いあやまり自尊心を強くして世を害する人も亦少なからずあるなり。是等は婦女子に多し。その理由は婦女子は俗に婦人病と称する病より神経のはたらき鋭敏となり、其が嵩じて一種の錯覚を起し、神憑りと称するあやしげなる姿に変ずるに依てかかるあやまりを生ぜしむるに至る。即ち一種の病的より現はるる現象なれば結果は不成功に終る事多し。
 原因よりあやまちあれば結果は不成功に終るは当然なるべし。論ぜずとも明らかならん。次に正信信仰について語るべし。正信信仰には見聞なしたる事柄より自づと神仏のある事を自覚して漸次現はれ来る信仰にて、是にも種々様々異りたる経路あれど帰する処は神仏のありと考へて、其に依て己の心を安らかならしめんとなす底の人は多し。此信仰を有する人は唯神仏ありとのみ考へて心の表面にのみ信仰を持ち居れど、内心深く神仏に帰依するにあらねば神と共に起居動作に迄徹し居らざるが故に迷ふこと多し。或場合は神を拝し或場合は神より遠ざかることあるに依て、あるが如くなきが如く飄々として真の神仏を把握し居らざる人なり。
 されど大なる罪を犯すこともなくさりとて大なる力もて世を救ふ底の信仰もあらざる人なり。是等の信仰者は一般人のうち智識階級の人に見らるるにて無智識の人には稀なり。此正信信仰に於て肉体信仰が共に加らば正しき信仰者となる類の人となる。されど精神信仰のみにては一方的になるに依て因果の理は肉体と精神の二つに分離せられて思いもよらぬ危難にて肉体を傷くること多し。もし其が身心共に同じ程度の信仰となり居らば一生は安らかに世を送ることを得るなり。是因果の法則なるに依てなり。是等の詳細は追々述ぶる事とするも今は是にて止めをかん。 

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