覚者慈音137  光明論上巻  教主寛大による清めの言葉

 今日は母の四九日の法要を行った。朝、僕は母の遺影の前で教主寛大による「清めの言葉」を読み上げた。光明論上巻の冒頭に掲載されているものだ。この言葉には僕らの想像を超える大きな力、法力が働き、諸々を清め給ふ力がある。おそらく日本で法事にこの詞を使うのは僕が最初だろうと思ふ。妻は昔からそれをすべて諳んじていて、車に乗っている際にも称えているぐらいだ。厳戒の辞も僕よりもずっと数多く称えている。教主寛大は僕よりも妻の信仰を愛でているにちがいない。丁度この未知日記に出てくる「おきくばあさん」と似たところがある。
 この詞の解説をセイキョウ貴尊が光明論で50ペ-ジに及び解説されている。それを読むとああなるほど、そういった意味があるのかとよくわかる。この大霊界を転記し終えたなら、それらをここに載せるつもりだ。すれば読者諸兄もより深く此の詞の尊さ、有り難さを理解されるのではないかと思ふ。
 僕もこれまで手当たり次第にいろいろな霊的な解説書なるものには目を通したが、それらとは当然比ぶべくもない程、この未知日記の書は隔絶、いや超絶した処に位置している。今後この世界には二度とこのような書はもう現れることはないだろう。そしてこれから何千年にも亘つて新人類達がそれを読み継ぎ、地球から生まれる新たなる名著、人類の最高の精神的所産になるのだろうと思ふ。なぜなら是等は真実の天使(天界の学者)が教える真の天界の学問に他ならないからだ。肉体を持つていた頃の釈迦.キリストは勿論のこと、古来からの名僧智識と呼称された如何なる宗教者達も誰一人として知らなかった霊界の仕組み、その複雑多端さをこれほどまでに詳細に述べられた書籍はかってなかった。此の書が多くの人達に読まれることによって今後、地球に第二第三の釈迦、キリストと居並ぶ聖者が数多く輩出されることだろう。
 又、第十巻の帰途案内記の書に九流界のおもしろい伝説が記載されている。それはある夫婦が奇形児を生んだ話だ。夫婦はいたくそれを恥じて審判所に訴え出た。どうしたものだろうかと天使に尋ねた。すると天使曰く、「この奇形児は不具者にあらず。汝等の世界を栄えしめんが為に生まれ出でたる者、名をクラアズと名付け、これを大事に養育せよ」と
やがてこの奇形児は長ずるに従い、教えざるに何事をもわきまえて政治 経済 科学 物理の領域におおきな力を発揮して、一人の力でもって此の界全体を持ち上げ八流界に迄推し進めたそうだ。今もこの界では彼を伝説化し、界の名称はクラアズと呼ばれているらしい。クラアズとは優秀なる智慧の子供との意味があるという。だから智慧すぐれた子供をみれば彼はクラアス゛の再来だと呼ぶ風習が今もあるらしい。
 優秀な地球の科学者達がこの未知日記を本格的に研究することによってこの地球界も九流界に飛翔することも決して夢ではないかもしれない。未知日記の書には大きなヒントが沢山埋め込まれている。一例をあげるなら塩の持つ育母素の話、気光素電気の話、天変地異を知るための易学の研究、大気音波の研究等々、その他数多くのテ-マが内包されている。特筆すべきはこの空気中から無尽蔵の食料を得る事の理も説かれている。それが完成すれば、この地球から餓死者などというものは根絶されるに違いない。それと同時に従来の喰はんが為に労働するという貧しい考えから解放され、道を得んがために喰うと云う発想を人類がもつことになるだろう。これはとても大きな事だ。
どうか科学者の方々が此の書に眼を凝らし、深く深く研究されんことを心から祈っている。地球界の夜明けはもう間近に迫っている。


教主寛大による清めの詞



形を有する光明には位置あり



位置ある光明には限度あり



位置なき光明には形を有せず



形なければ限度なし



神の光明は位置もなく形もなく又限度なし、故に無極無辺なり



大凡宇宙全体悉く神の光明に浴せざるもの一としてあらじ



此光明に浴して汝等は下界に生をうけたり



即ち汝等は一本の燈燭の如く光明をうけたるなり



肉体は燭にして魂魄は点火の如し



燭尽きざれば点火は消滅せざるが如く、肉体あらん限り魂魄は去らざるべし



魂魄の点火は消失すると雖も滅したるにあらず。その位置を異にするのみ



点火さるれば光を放たん。実質にあらずして無明の光明と変じあるにすぎず



燭の形状には大小長短太細ある如く、人体にも同様の恵みあるなり



滅後一本の線香に変ずるも薫郁はたかし



香も亦光明なり。光を香に変へたるのみ



一本の花、一椀の飯(はん)、一滴の水悉く光明ならざるはなし



汝等は自らの教訓のために神を祭祀(まつる)如く思惟するに依って



心の汚れは清浄されざるなり



燈燭細小なりと雖も明光赫々たるあり。燭太く大なりとも輝き鈍きあり



人間にもこの理あらん。線香にも良否あり。人にも善悪あり



その他種々様々の事柄を燈燭薫香に託して考慮せよ 然して



一本の燭に勝れる任務を行ひ居るか。又一本の線香に勝る善行をつみあるか



或は悪臭を放つ不正の線香となり居らざるかを



朝夕香華燈燭を捧ぐる時必ず反省せよ      



形を有する光明は表面を照らすと雖も裏面に影を止む



形なき霊光は普く百方を照らして全からずと云ふことなし



大小高低曲直はもとより善悪正邪、ものの美醜を嫌はず、



そのままに現はして偽る事なし



形を有する光は掩ひかくすを得れども霊光はかくさるる憂なし



日月には触あり、霊光には斯かる事なし



日月には雲あり、霊光にはなし



形ある光は滅すれども終始なき霊光は滅せず



形ある光にはなやみあり。霊光にはなやむことなし



形を有する光は破壊するを得れども霊光は破壊するを得ず



形ある光は食を与へずば滅す。霊光には食の要なし



位置を有する光には居を有す。霊光にはその要なし



形ある光はものを焼失せしむれども霊光はかかる危険なし



形ある光は霊光に依って生じたれど霊光を照らす力なし



太陽の光には朝夕昼夜の別ありて時間空間距離を有すれども



霊光にはかかる不便なし



形ある光は速度を有するも霊光にはその要なし



形ある光は善悪正邪の区を明らかにすれども左右することを得ず



霊光には善悪正邪に応ずるを以て是を左右する力あり



故に霊光はその区を明らむるなし



形の光は胞子の集合にしてその胞子は霊光より作らる



故に霊光ははたらきにして始めなく終はりなき智慧の根源なり



形を有する光は数多けれどもすべては霊光に帰す



故に霊光の根源にかへらば衣食住の心配なく生老病死苦のうれひなし



早合点なすものは真を究むる道を知らず。表面の信仰に終れば早呑込み



早合点者は潜在せる魂をよびをこすことをせざるなり




僕は中学と高校生の孫達にこの清めの言葉と厳戒の辞の解説書を渡した。今は君達はわからなくていい。大人になってじっくりと考えてくれればいい 。
これはじいちゃんからの遺言だ。

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