覚者慈音136 大霊界  自己の肉体に有する大霊界とは  教主寛大講義



未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO93
      
自己の肉体に有する大霊界とは何処ぞ   その5
                                                                           教主寛大 講述


 我等は諸子に法を教へ居るなり。然るに諸子はその方法を学ばんとなさざるが故に、認識把握することを得ざるのみ。我等は導かんとして努力なし居るにすぎず。故に法も伝へ居るなり。然るに、諸子は法を学ばんとせず。我等の教へを聞きのがして我ものとなさざるが故に、塵埃をためてその中に座し居るに等しきなり。その塵埃を浄化して美はしき座を設けんことに努力せよ。我等は汝等に美味を与へ居るなり。その美味を喰はず、唯眺め居りては何等の価値もなし。教へを聞きて知る程度にては、美味を眺め居るにすぎず。知りたらばさとれよと。さとらずば味を知ること難し。教へを知るは美味を眺め、是を覚るは喰ふなり。喰ひて味を知る程度に至らずば、養分とはならざるなり。仮に家を建る方法を学びたりとて学びたるのみにては、雨露を志のぐことを得ず。是を建つることによって、はじめて家の価値はあらはるるなり。拝みせよとは実行に移せよと云ふことなり。
 家を建つるには種々様々の道具が必要ならん。その道具を汝等諸子に我等は与へ居るなり。然るに汝等諸子はそれを知らず。何か変はりたる一種の魔法ありて、其れによって行ぜんと考ふる如きは愚なることなり。故に斯る望はすてよ。例へば人の心を計るには、斯くすべき機械を考案して、其れによって計らんとする如きは、実にあさはかなる望なり。空なるものを空によって測定することを得るが故に、汝等諸子に対しても空なることを教へ居るなり。是機械を授け居るなり。余事にわたりたればもとに復すべし。
 人間界を度脱して仏界に入れよと語り聞かすは仏教者の教へなり。然るに汝等諸子の多くは、その真の意味を知らず。仏界に入るには出家して行ぜよとの極端なる意味にとりて、仏教を解釈するによって誤解すること多し。仏教者の語る人間界を度脱して、仏界に入れよと云ふことは出家せよとの意味にあらず。所謂諸子の肉体は、動物性なるが故に、その動物性をぬけ出でて魂の世界、即ち仏界に生まれかはれよとの教へと思はば、敢て頭を丸めて寺に入るの必要もなからん。頭を丸めて寺に入りたりとて、動物性に囚はれ居りては往生はなり難し。故に或僧は一首の短歌によって教へ居るにてはあらざるか。即ち「世をすてて坊主になるなさかな喰へ、地獄に行くも鬼にまくるな」との狂歌を以て、衆人を導き居ることに留意せよ。是等の事柄より考ゆれば、出家とは動物性をはなれよとの意味にして、坊主になれよと云ふにあらず。肉体の中に住居をりても、是等の事柄をさとりて行ずるものは即ち出家なり。たとえ在家にもあれ、出家にもあれ、正しきさとりを得たるものは、肉体の有無に不拘、動物性を離れて真の人となりて、始めて度脱することを得るなり。所謂肉体を大切にしてその肉体を養ひ、然して真の人間になることを、魚食へ、地獄に行くもとは、如何なる困難に逢遇すとも是に打ち勝つ、体力を養ひをけよとの教へなるべし。出家とは騒音より正音をぬき出して是に依って、すべてを鑑別し、己に有する魂をその正音に同化せしめよとの教へならん。肉体の中に充満し居る騒音の中より、すぐれたる正音を引き出して、その正音によって騒音のすべてを認識することを得ば、出家の目的は遂げられたるなり。在家とは騒音にみなぎる肉体に住居することを在家すると云ふなり。我等の説と宗教者の説との相違はこの事柄によってもうなづかるるならん。されど帰する処は一なるべし。所謂麓の路は多くとも高嶺の月は一なるべし。行者が山間幽谷にわけ入るも、正音によって騒音を洗ひきよめんとせんがための方法に他ならず。
仏教者の語る煩悩とは即ち騒音を云ふなり。此騒音を正音に化する事によって、人間を度脱して仏界に入ることを得るとの意味なるべし。故に仏教者の一部には、仏凡一体即心成仏と語り居るにてはあらざるか。是即ち仏界に入る方法と考へて可ならん。されど我等はかかる小乗的或は大乗的と称する宗教を、汝等諸子に教ゆるにあらず。唯我等の教ゆる処を是等宗教者の言葉を応用したる迄にて、便宜上の言葉にすぎざるなり。

×

非ログインユーザーとして返信する