覚者慈音1406  未知日記 第九巻   因果論  人身篇一     インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1406
未知日記 第九巻 因果論       
第一の巻
人身篇一 
         インショウ、ミキョウ貴尊 講述                     2019.9.10
 第七  身心共に常におだやかなれ


 世人は日々朝めざめて夜いぬる迄間断なく何事をか考へて身心の動揺をなし居るならん。是は何故なるかより先づ考へ見るとき、是を我に云はしむるならば、医学上の論理は別として肉体の波長が神経に通ひて或一定の律呂を生じ其が心に通じて脳も亦その律呂の音程に従いて働く故に、眼にふるるもの耳に通ずるものより常にその波長が動じて間断なきが故にかかる現象を誘発なし居ると見て差支なしと我は思ふなり。
 例へば眼を往来の人に注ぐ時、其人の行動が変りたる様を見するならば其に依て何かの感想が浮び来るも是律呂の演奏が曲となりて現はれ来る故なるべし。耳又同様の関係あらん。花を見ては美はしとか醜くしとかを感ずるも亦楽音の現はれと見なして可なり。もし其人が己が心に大なるなやみある時は他人の動作とか花の醜美とかを眼にふるるとも何等感じ来るものにあらず。唯その心配の悩みにのみ囚はるることは誰もが実験するところ、是は悩みと云ふ曲が演奏され居りて他のものの演奏が己に通じ来らざる故なり。汝もし一つの事を考へ居る時他人より様々の話を聞かさるるとも更に通ぜざるべし。然るにその考案工夫に対して関係ある言葉ならば直ちに通じ来ることは経験せしこともあるならん。是等はその考案の作曲に対して応援せられたる故にさとり得るにて、その事以外は通ずるものにあらず。我の語らんとする処はここに存す。兎に角人には其々に有する個性あり。その個性とは即ち十二律十二呂の区別あると同様の関係におかれあるによって或は何々調と称する分野にをかれあるが故に、その調に従はざる作曲は未完成に終る理より察すれば自づと頷くところあるならん。
 世人は音楽を聞くに当って唯美はしきとか、或は面白きとか楽しきとかを以て音楽を鑑賞するならば其は娯楽にすぎず。音楽の尊さはかかる浅薄のものにあらずして、人生にとりて修養上必要のものとして尊まるるは、今迄述べ来りたるところより考ふれば世人も察することを得るならんと我は思ふなり。何々の音は何々に合い、何々の律呂は何々調に通ふとか唯楽音的に観察なすは真の音楽家にはあらざるなり。余事にわたりたる如き感あれど音楽の楽音のみに囚はれて是を広く用いざれば、音の妙味を味はい又人生の音柄(おとがら)をきはむることは難し。故に注意迄にかくは語りをきたり。人は常に身心を無駄にせず、心も身も平にをだやかになして、さて大事に遭遇すれば忽ち是をその事に対して処理する力を養成なし居らずば危急に当って慌てふためく恐れあらん。故に如何なる時如何なる場合に遭遇すとも動ぜざる底の修養をなさんとせば先づ日々を平静になしをくの要あるなり。平静とは即ち律呂を分解して肉体は肉体に、心は心に於てその本来の空に帰せしめてさて大事に遭遇すれば、忽ち是を律呂に組織して事にあたる修行を重ぬるにあらざれば大事はなし遂ぐるものにあらず。一つの考へを起さば既に律呂は調和して発声なしたると同様の関係を知るべし。例へば楽器を手入れして何時にても演奏なし得るやぅ整へをくと同様にて一つの考へとは一つの音を発せしめたると同様と思はば可なり。世人は徒らに狂ひたる楽器にて日々雑曲を演奏しあるが故に。さて改まって一曲を奏でんとなすとも正しき曲を奏づること難きは是雑念妄想と云ふ雑曲を整はざる楽器にて演奏なし居ると同様の関係としてかかる愚をなす勿れと勧むるものなり。徒らに雑音を発せしめ居るは他を害する妨げにすぎず。故に身心の楽器を日々手入れして何時にても名曲を演奏する準備をなしをかば可ならん。

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