学生時代の思い出 壱


 二十歳の頃、東京の武蔵野に住んでいた。アパートはオンボロの二階建で、余程刑務所の独居房の方が恵まれていそうなところだった。住人は皆学生で、僕たちはその腐ったアパートを勝手に蛸壺マンションと呼んでいた。それは学生二十人程が住む、いわば蛸部屋のようなものであった。隣の住人とのしきりは壁と云うよりも、厚手のベニヤ板を何枚か重ねて壁の代用にしていた代物だった。当時はあちこちにそんな貧民窟が沢山林立していた。部屋は三畳間で扉を開けるとすぐに窓があった。机、椅子、こたつ、小さなテーブル、それだけで部屋は立錐の余地もなし。部屋の真ん中に六十ワットの裸電球がただ無造作にぶら下つている。トイレも台所も洗濯場もすべて共同使用でいつも混みあっていた。夜の食事は近所に私営の安い学生食堂があって、みんなでそこへ行き、日替わり定食を食っていた。名前はたしか金ちゃん食堂だ。大盛定食一膳が百円だった。学生だけじゃなく一般人も入り込み、たいそう繁盛していた。
 当時、年長の兄は明治大の法科を出て、就職活動はせず、弁護士事務所に住み込みで生活していた。一年歳下の弟は一年生になったばかり。その下にはさらに予備軍の高校三年生が控えていた。だから親はそれこそ大変だった。家賃は二千円、親からの仕送りは二万円もらっていた。今仮に僕が親の立場にあつたなら、とてもじゃないができるものじゃない。
夜になると一つの部屋にみなが集まり、ジョンバエズの反戦歌「風に吹かれて」や「ドナドナ」などの曲を幾つか唄っていた。中にギターの名手が居て、禁じられた遊び、アルハンブラの思い出、夜霧の偲び合いなどの曲を演奏してくれたものだった。そこは野中にあって誰憚ることもなく夜を徹して楽しんだものだ。
 ここの下宿はチョット変わっていて右へ十メートル行くと、国分寺市になり、左に十メートル行くと府中市になる。そして建物は武蔵小金井市に建っていたわけだ。だから三市のど真ん中という訳だ。しかし見方をかえれば三市の村はずれということにもなる。当時東京都と云ってもここはホントの田舎で、まだ僕の故郷の方がよっぽど町らしい形態を保っていた。「京に田舎あり」というがその頃は国木田独歩のいう、かっての武蔵野がそのままに姿を変えず広がっていた。今は変わっただろうな。
 住人の一人が布団部屋の襖を外し、酒瓶を詰める木箱を酒屋から何個か拝借してきて、にわか簡易ベッドを作った。それを見た住人の何人かがそれを真似てあちこちの部屋で同様のベッドが大量に作られた。当然僕も作った。ある日大家が僕の部屋に入ってきて、君 !!「ここにあった襖はどうしたんだ。なに、ベットに使っているだって、すぐにもとの場所に戻せ。今迄いた学生さんは、君らのような乱暴なことはしたことがなかった。まつたく、もう最近の学生は」と厳しく叱責して帰っていった。

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