もう一度行ってみたい萩の町

も一度行ってみたい萩の町
留魂録について


 なぜ萩かというと、その地に松陰が眠っているからです。私はこれまで二度萩に参りました。一度目は一人旅、二度目は子供達を連れて、松陰にかかわるところをすべてくまなく歩き、松陰の偉大な足跡を子供達に語ってやりました。私が歴史上の人物で最も敬愛して止まぬ人、それが松陰なのです。学生時代から、山岡荘八の「吉田松陰」を幾度も幾度も読みました。読むたびに顔が涙でくしゃくしゃになります。まして松陰の最期に話が及ぶだけで、恥ずかしい話、私は傍目も顧みず号泣してしまいます。今でも松陰に関する書籍に眼を通すと、胸に熱いものがこみ上げ、目頭が熱くなるのを禁じ得ない。
 多分人間が浪花節タイプにできあがっておる性もあるのでしょう。周知の如く彼は若干、二十九歳でもつて天命を終えられています。松陰の一生は色恋沙汰もなければ、酒にも無縁、只、国に殉ずる至誠でもって貫かれて居りました。私は松陰こそ危急存亡の幕末に降臨された、まがう事なき真の天使であるとことを信じて疑わない。志士中、比肩する人もなき程、国を憂い、国に殉じ、これほど純潔無比な生き方をされた日本人は他にはいない。私は松陰を幕末最大の英傑と思い、限りなく日本の誇りと思って居ます。
 傍から見れば、松陰の薄命は惜しんでも惜しみきれないものがあります。その短い生の間に、彼が残した文書はこれまた膨大な量になつている。その間、脱藩してまでも東北、九州は云ふに及ばず、全国各地を文字通り、足で旅をしています。勿論、物見遊山などでなく、他国からの侵略、その沿岸防備の強化の必要性を、広く中外に発揚せんが為の命がけの旅でした。十代の初めから晩年に到るまで、その多くの時間を旅に生き、旅に死した。いわば彼こそ文字通り、漂泊流離の旅人だったのです。だが、その短命の二十九年の生涯は普通人のそれの数十倍、或はそれ以上に値する濃密で豊穣な人生を生きられた。その人が、江戸伝馬町の牢獄で死刑を宣告され同じ遺書を二通認め、そのうちの一通を八丈島に島送りされる予定の者に託した。その男は無教育の荒くれ者でありながら、牢中で松陰の謦咳に接することにより、彼に私淑し、彼を師と仰いだ。託された遺書を流刑中の間も油紙に幾重にも包み、十数年間も懐中に入れて肌身離さず持っていたそうな。一通は当然、幕使によって破棄されたが、もう一通はその荒くれ者の忠義により明治になって初めて世に現はれ、私達がいま読むことが出來るのです。その遺書の中にあの有名な辞世の句(身はたとえ武蔵野の野辺に朽ちるぬとも、とどめおかまじ大和魂。そして家族には親思ふ心にまさる親心、けふのおとずれ何ときくらん)とその句と共に次に示す言葉が綴られている。
その内容は私のそら覚えによるところが多く、必ずしも正確ではありませんが。が、大要は斯くの通り。
 「人生其々に四季あり、私には短かった二十九年と云う歳月にも、春夏秋冬が備わつていた。私にもそれ相応の稔りも出来た。人はそれを白穂と呼ぶかも知れない。でもその判断はすべて天に任そう。人生と云うものは不可思議なもので、百年の生を生きたとしても白穂はおろか、藁を作りて世を去る人余りにも多い。逆に三歳にて死する短命の童の中に、見事なる種を残すものもある。云々」と著述されて居られます。時を経、日を経るごとに上記の一節春夏秋冬の稔りの言句は、常に重く私の心にのしかかってまいりました。私当年取って七十歳、平均寿命から推し測れば、今は晩秋はとうに過ぎて、厳冬にまさに突入せんとしております。本来ならば誰しも稔りの秋(とき)を喜ぶべき時節なのでしょうが、未だ悲しくも稲穂には白穂すら稔って居りません。このまま馬齢を重ね行くならば、間違いなく松陰先生の云う、米を作らずして藁を作るだけの一生で終わりそうです。今痛切に本心からそう思って居ます。例え米麦の結実を為さずともよし、稗、粟粒としての貧しき結実でも大いに結構、ただ藁を作るだけの一生に終始しませようにと真剣に乞い願っている。
 その実りとは何か。それは各自に生れながらに天より賦与されている、宝石に磨き上げられる前の原石のようなものです。当然その原石には人により、大小軽重の区別は自ずとあります。世の中には、大きな天分を持って生まれし者、又小さき天分を与えられし者、人間の魂の器はそれこそ千差万別、多岐多彩にわたって居ります。たとえ私に与えられたるものが、粗末で小さいものだつたとしても是を粗略にせず、粗末なるものをなるべく勝れたるものに、磨きあげんと努力することにこそ、人生の最大の意義があると考えるようになりました。庭に咲く花さえも、花を落とし葉を枯れさせることによって、地中に球根を太く大きく蓄えようとしています。歳をとることによって若い時には一顧だにしなかった死と云ふものに対して、少しずつではありますが考えるようになった今日この頃です。
 或禅家の覚者は、己のうちに蔵せられし宝石を見つけた感動を次のような歌で表しています。
「本来の面目坊の立ち姿、一目見しより恋となりけり」


さあ、皆様もご一緒にこの面目坊を探す旅を続けてまいりましょう。

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