終生忘れ得ぬ旅 4

終生忘れ得ぬ旅  3 



 途中の景色などは少しも覚えていない。だが寝たところは、学校のグラウンド場、浜茶屋、奈良公園、駅のベンチ、名もないお寺などをねぐらに選んだ。それぞれの場所は今も朧気に記憶している。国道一号線を走った時は怖かった。横一メートルのところを大型トラックが疾走していく時などは風圧で身体が引き込まれそうになる。私は走行中は殆ど前を見ずにバックミラーに全神経を注いだ。当時の車道幅は本当に狭く、まして自転車などの走行を想定したものでなかったからだ。それと長いトンネルも恐怖だった。今のようにトンネル内に照明など全くなかった時代だ。いうならば日中でも漆黒の闇だ。闇のなかでは走行中は平衡感覚が失われ、身体がまっすぐになつているのか、傾いているのか全く分からない状態になる。倒れるのじゃないかという恐怖心のとりこに憑かれた。まして無灯火の自転車だ。おまけに大型のトラックが数多く疾走してゆくわけです。この恐怖は本当に経験したものじゃないと解からないと思う。長いトンネルの向こうにうすらぼんやりと小さな出口が見えたときは、本当に心から安堵した。やがて奈良、京都を過ぎて敦賀に到着。そこの海水浴客のための浜茶屋で夜は寝た。明け方四時頃に敦賀を出て、昼過ぎに漸く我が家に着いた。真っ黒の顔をしていた。両親はことの経緯を知らないために、幾度も幾度も何故、何故と聞き返した。今だったら大金をいくら積まれても出來っこない。なんの代償も求めず、一心不乱にあるものに没入できる。それが青春の特権ということか。
 危険と隣り合わせの旅、それもとりわけ一人旅は何十年経っても鮮明に記憶に残っている。息子も血は争えないものだ。バイトと旅行に日々明け暮れて学校何ぞへは殆ど行っていない。 私の寮にいた友人は、私に触発されて翌春東京から岡山迄徒歩で帰るプランを立てた。東京から三十日余りかけて京都まで歩いた。始めは登山靴のようなものを履いて出発した。でもそれは歩きにくく途中でシューズに切り替え、それも諦め草履を履き、最後には包帯を幾重にも巻いて歩いたそうだ。だが足は血まみれになり、歩くことも叶わずとうとう京都の病院に運ばれた。病院から私に電話があつた。でも彼の電話の声は中途に断念したとはいえ、とても明るかつた。是を書いているうち、津山に住んでいる彼を懐かしく思い、電話をかけてみた。賀状の交換はやっていたが、近況は殆ど知らなかった。彼はこの何十年の間にいくつかの職業を変えたこと。そして学生時代あれほどあった髪がほとんど抜け落ち、今は天頂から後光が射していることなどを愉快に語ってくれた。当時、彼は身長は百八十位あって、いまテレビに出てくるジャニーズ系のアイドルなども、当時の彼を見たらおそらく裸足で逃げ出す程の美貌に恵まれていた。彼の兄は早稲田の理系を出て、姉は栗原小巻に似た美女、父親は高校の厳格な数学教師だった。そのオーラに輝く彼の頭を想像して、思はず電話口で噴出した。そして同時に、時の流れの非情さを憶ふ。

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