覚者慈音124  大霊界  大霊界とは如何なる場所か  その3  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO80
      
    大霊界とは如何なる場所か   その3
                                                                              教主寛大 講述


 慈音が五大鏡、八大門を見聞したりしも、即ち無言詞を有言詞に化せしめたる現はれなり。兎に角無言詞界のはたらきは、すべて斯くの如き関係あるによって、一見すれば何の影もなく姿も無き秘密の世界の如く解せらるれど、力そなはりて、此居に達したるものは、その姿形なき世界が複雑微妙なるはたらきをなし居ることを明白に知ることを得るなり。是秘密にあらず。汝等諸子の修養修行が至らざるが故に、たとえ許されて其ところに来るも、何等得るところはあらざるなり。故に順序を追ふて進み来るにあらざれば、実に無味乾燥の世界と見るの他なかるべし。
 未知日記に於て語りたる如く下界のものが上界の秘密を探らんとして、隠形の法を行ひて其界に入らんとせし時、何も見えずして入るあたはず。其時彼は隠形の法を破りて、はじめてその界に入ることを得たりと云ふ話を、諸子は記憶なし居るならん。恰も其と同様にて己の力そなはらずして、高きところを探らんとするも、其は及ばざるなり。己にさへ力そなはらば苦しまずとも許されて、すべて明らかに知ることは、即ち神の世界に秘密なき故なり。汝等諸子の世界に於ての秘密は余りに智慧なき故に、何日かはその秘密が世に漏れて、其裏をかかれて亡ぼさる如き失敗は多かるべし。今や汝等の世界は何処の国に於ても秘密秘密とおしかくして、世に洩れざるやぅ計りをれど間者、数多はいりこみてその秘密を探り居る現在にてはあらざるか。所謂現在は間者の横行によって、互いに鎬(しのぎ)を削り居るを我等は滑稽なりと思ふなり。汝等諸子の言葉に隠すより現はるるはなしと云ふ言葉あるならん。隠すが故に現はるるなり。この理は無は有を生むと云ふ原理より出づるにて、敢て不審するには足らざるなり。動物性本能は反射力強きが故に、語る勿れと止めらるれば、語りたくなるものにて、秘密は洩れて秘密とはならざるなり。事実を隔さんとすとも、決してかくし得るものにあらず。されど無言詞は空無なるが故に、正しければかくさんとする方法もあらずして現はるるものにあらず。又現はさるるものにもあらざるなり。悪人が悪しき行為をなして警官に看破らるるも、己の心に蔵し居る秘密があらはれて、警官に知らしむるが故に捕へられて獄舎に投ぜらるるは、即ち四知の法則にして、所謂天知る、地知る、我知る,氏知るの四知の理に基づく故なり。正しい行為と雖も何日かは現はるる時節来たらん。行為とは最早事実となり居るが故なり。事実は有なり。無にあらざるによってなり。斯る事は我、論ぜずとも諸子はよく知るならん。己の心に傷く行為をなして、其が人生一代現はれずして死したりとて、天の知る以上現はれじと云ふことなし。されば神に恥じぬ行為をなすならば、正々堂々生命終るとも何ぞ憂うるに足らん。無言詞界に入らんとせば肉体を有する間に於ても、慈音の如く許されて入ることも得るなり。慈音は己の過去に於て重ねたる罪業悉くを裁かるるままに裁かれて、すべてその罪は許され居るが故にこそ、斯くも有難き恩恵にあづかり居るなり。汝等諸子は己の犯したる罪を早く懺悔して甘んじて審判(さばき)を受けよ。然して罪業消滅すれば、其にて天界はゆるされて自由の身となることは明らかなり。汝等の心は余りに秘密多くして塵埃を重ね居るが故に、魂は混濁して光彩を放つことあたはず。肉体の審判は一時的の苦みによって消滅す。されど心魂の悩みは永久とならん。故に諸子は秘密を貯ゆること勿れ。如何なる小さき事なりと雖も秘密はあらはして裁判(さばき)をうけよ。この事は我等の説も宗教者の説も同一なり。迷信妄信にはあらざるなり。他人の非を聞きては己を省みよ。徒に他の非をあばくことに汲々として、己の非を悟らざる人は多し。他人の非を聞きて己を改めずば、却って汚れを増すのみにて、害となることは云ふまでもなし。

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