覚者慈音1215 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の二  NO 71 セイキョウ貴尊講義

者慈音1215
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 71
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.27


 科学進みて却て信を失ひ、其がために魂の存在すら知るにいたらざるは、人間の智慧と神の智慧との隔、余りに大き故なり。仏教の教へに釈迦は弟子に語りて曰く、「我に従ひ来るものは遠くはなるるとも我と近し。我に従はずば我の傍に座すとも隔は遠し」と教へしと云ふにてはあらざるか。誠に然り。然あるなり。世人の修養修行の一大事はここにあるなり。汝の傍には常に神は居給ふ。されど世人は恰も籾の中にかくされたる米の如くなるによりて神を知らず。故に神より遠ざかり居るなり。籾と云ふ障碍物を脱ぎ去らば、神の姿は忽然として現はる。信仰全くなき人は神の傍に居ながら、神より遠くはなれ居て、神に背をむけ居るによりて、常に神と反対の方向に進まんとなし居るに等し。然るに神は是等の者すら捨て給はず、反対の方向に向ひ居る者の背後より離れず守り給ふことに、気附くならば、如何でか誤まちたる行ひをなして神に背く如き道を運ばんとするや。早くめざめて神の面影を拝すことに努力せば如何 !
もとより信仰なき人は稔らせざる米なるが故に、籾の中にありても亦その籾をぬぎても、神を見ること難きも亦是非なき事ならん。信仰ある人は眼に見えぬ神はあるものと信ずるが故に、任務をおろそかにせずして漸く稔りて米とはなりたれども、まだ籾と云ふ衣を脱がざるが故に、傍に座せる神を拝むこと難し。その衣を脱ぐとは即ちさとりを得よとの意味なり。籾を脱ぎて米とならば其にて正しき神を知ることを得るやと言ふに事実は然らず、米となりても米にはうすき外皮を有す。故に神の姿はおぼろげに見ゆるのみにて明瞭には見ること難し。されば米の外皮を脱ぐにあらざれば、明瞭に神を拝することは難しとの意味も、此譬喩によって知ることを得たらん。

×

非ログインユーザーとして返信する