覚者慈音1216 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の二 NO 72 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1216
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 72
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.28


 道理は斯くの如きものにて遠しと思ふことも事実は近く、近しと思ふことも事実は遠し。恰も望遠鏡を直接に見ると、反対に見るとの相違なりと知らば可ならん。さとりはむづかしく考ふればむづかしく、平易に考ふればきはめて易し。唯心の持ちかた修養の方法をあやまたざるやぅ智慧をはたらかすに不如、尊きものは智慧なり。望ましきものも亦智慧なり。その智慧の用法如何によっては上昇し又下降す。上昇の一路を歩むを正信と云ひ、反対に下降するを迷信と我等は名づけ居るなり。されば上昇の道下降の道何れにもあれ、進まんとせば一歩々々歩みを進めざるべからず。同じ一歩々々の歩行に於ても上ると下るとは時間に於て、大なる相違あることは世人も知るとところ、即ち上るは困難を伴ひ、下るは易かるべし。世人の歩行(あゆみ)は早き方向に向ふが故、上ると思ひ居ることも事実に於て降り居ること多し。何れにもあれ習慣性持続して上る方向へ足をむけ居らば、何時かは頂上に達すべし。いささかの苦痛に堪えかねて中途より下山する勿れ。
 余事は兎に角、魂の緒の全く切れたる後に於てこの三種の相違あるによって、天界に運ばれ来る者、みな其々程度に応じて居を異にするは、是又当然なりと考へざるべからず。霊は魂の力の程度を知るによって、その程度に応じて運びをなし居ることも、前説によって察せらるるならん。浮住界に長く止まりて、種々様々な苦みをなし居るとも、霊は離れず。さりとてその苦みをのがれしめんとはなさざるなり。前書にも語り居る如く、霊は善にも従ひ悪にも従ふ。悪人が善に化すれば霊も善に化し、悪人なりとも善人なりとも、その程度に従ひて霊ははたらく。されど魂には苦痛を感ずれど、霊には苦痛はあらざるなり。浮住界に於て永久迷ひ居らば、霊は共に是に順じて離れず。故に霊の力によって永久死滅せざるなり。死滅せざるが故に、永久の苦はまぬがれざることも推して知ることを得ん。故に一旦この魂が悔悟して浮住界に於てめざむれば、忽ち霊も是に応じて安楽の境涯に導くと知るべし。
(注意)


我等前巻の講は確定後を用いず語り居たりしが、教主は不確定語にては世人を導くに却て迷ひを多くせん。故に確定語を用いて導けよと仰せられたるが故に、因果論よりこの書に及びて確定語を用いおるなれど、命令的の言葉にあらざることを諒とせよ。
 浮住界に於て前非を後悔なして正道につかば、霊は是に応じて安楽の処に到らしむる力を有するが故に、この霊に有する特殊の力が働らきて、魂は悔悟することを得るも、是即ち霊の威徳によるなり。苦みを味はひて唯苦みに悶え居りては、何時かは覚むる事あらん。此事あるによって我等肉体を有する間に、修行しおかずば魂の緒切れての後の修行は、至難なりと教へしも是なり。 浮住界に迷へる魂は、苦みを苦みとして悶へ悩むのみにて、悔悟して己が非を覚る事を知らざる魂の余りに多きを見るによってなり。
 浮住界に於て斯かる苦しみを得たるも、何か前世の罪ならんと悟る事を得ずば、到底此苦患を脱すること至難なる故なり。修養修行なき魂は唯苦むのみにて、その原因をたしかむる力を具へ居らざるが故に、悩むのみにてさむる事をせず、永久の苦に悩さるるのみなるによって、我等は肉体の有する間に、修養修行して持続魂に化し居らば、たとひ浮住界に置るるとも、前世の原因をさとりて悔悟する力備はり、その力によって、斯くは教へ居ると承知せよ。

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