覚者慈音1214 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の二 NO 70  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1214
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 70
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.27


 例へば汝病苦に犯されて苦むとき愚者より斯くすれば其病は治癒す。我等其に依って治癒したる験あれば行ひ見よと聞かさるる時、愚者の言など聞くに由なしとて退けんよりは寧ろ、其説を信じて治癒すれば其方法の可否は論ずるの余地なからん。悩みの失せたりとせば其だけ汝の幸福にてあらざるか。己の智慧に誇りて長き苦みを味はんより、寧ろ愚者となりて苦を脱したるとの比較を考慮し見よ。是信不信の原理にて信ずれば毒も薬となり、疑へば薬も毒となる故に、世人は信を厚くして我等の説の可否を論ぜんより、寧ろ信じてさとり見よ。さとりて後疑ふならば疑ふべし。さとらずして疑ふは迷ひなり。よく我等の聞く処なるが汝の話は吾等には信じ難しと答へて、己の智慧を誇り居る人多し。斯る人は己の智慧に妨げられて、却て一大事をさとることを得ざる人に多し。譬喩にも自慢は智慧の行き止りと云ふにてはあらざるか。慢ずる心を先づ捨てよ。唯我独尊とは慢ずる心を云ふにあらず。独尊なるが故に智慧深くして尽きる所なきを云ふなり。智慧の行き詰りとなる如きものを、独尊と思はば大なる誤ちなり。慢ずる心は早く捨てよ。然らずばさとりは得られじ。所謂智慧の行き詰りとなるに依ってなり。
 世人の考ふる迷信とは其範囲きはめてせまし。世人が迷信として一笑に附し居る事に対しても深く追究して考ふれば、其中に何か一種の理は含まれある事多し。その理を基として工夫すれば、迷信も正信に化せられる道理あらん。徒らに我智慧を誇りて、何事も迷信なりとて是を等閑に附すること勿れ。一枚の護符を用いて病を治癒したりと云ふ、老婆の話を我は知る。医師より与へられたる処方箋を護符とあやまりて、是を服用して病を治癒したりと云ふ実話なり。世人は是を聞きて愚なる老婆よと嘲るか。嘲る汝等こそ愚者なりと我等は思ふなり。医師を信じて疑はず、その尊き医師より受けたる護符なれば、疑ひなく病は治癒すとの信念厚きため、是を服用することによって、己が肉体に有し居る魂が引き出されて完全なる働きをなせし為、病は治癒したるなり。もし汝等にして医者を信ぜず、彼の調剤せし薬など効果すくなしと思ひて、其薬を服用すとも病苦は失せざるべし。却て他の部分に障碍を起すのみならん。是汝の肉体に宿され居る魂が引き出だされざるによってなりとの考へより考察せば、老婆の愚信は賢信にして汝の正信は迷信の結果となることに、思ひを致さば、信ずる力の如何に強きかは察することを得るならん。

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