覚者慈音1213 未知日記 第十巻 帰途案内記 巻の二 NO 6 9 セイキョウ貴尊講義



覚者慈音1213
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 69
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.27


 次に第二の魂は如何にと云ふに、是は信仰ありても未ださとらざる魂なるにより、前者の場合とは異なり魂の緒全く切れての後と雖も、肉体を有する間よりの持続性を有し居るによって、霊に和して迷はず到らしめらるる所に達するなり。故に浮住界の悩みは少なし。よしんば浮住界に止る間と雖も悪魔の害を免がるるが故に、苦痛はあらざることと承知すべし。其理は霊の力が加はり居るによって、彼等を斥けて近寄せざる故なり。この魂は肉体を有する間に信の力を強くして、念を作りたる故なり。恰も稔りたる米を、籾の中に納めあると同様の関係と見なさば可ならん。魂の緒を全く切れて籾にて倉にはこばれたるに等し。されど籾を脱ずば米とはならざるが故に、其籾を取り去る間は浮住界にて、暫時は蔵せられ籾を脱ぎて米となりて、次の倉に移さるると思はば、是を魂にあてはめて考ふれば察するを得るならん。信仰ありても未ださとることを得ずして、魂の緒全く切るれば斯くの如き姿となるなり。籾のなかにある米を世人の魂にあてはめて考へ見るべし。
 もし米にして心あらば、己の今後は如何になり行くやとの迷ひを、起すならんとは考へざるか。籾は再び地上に下さるれば、又稲となりてはたらかざるべからず。又籾をぬがされて米とならば全き米としてのはたらきをなし遂ぐる結果となる故に、米に心あらば地に下さるるか、使命を全うするかの竿頭に立ちて、何れに置るるやに迷ふならん。迷ふは未ださとりを得ざる故に、不安より生ずる現象なるべし。第二の場合は恰も斯くの如き姿となることに思ひを致して肉体を有する間に、全きさとりを得る迄の修行こそ大切ならん。然らば第一の場合は如何にと云ふに、即ち肉体を有する間に完全なるさとりを得たる人を指すなり。完全にさとりたる人とは、即ち肉体を有する間に籾を脱ぎて米となりたる底の人を指すなり。籾を脱ぎて米とならば、最早再び地上には下されざるべし。直ちに運ばれて米としての任務を果す事を得るによって、何等の不安も迷ひもあらざること云ふ迄もなからん。この理を解することを得たらば我等泡を飛ばして語る余地なけれど、疑ひ深き世人には是のみにて未だ解することを得ず。尚も疑ひの心を起して兎や角と思ひ煩ふならん。正しきさとりを肉体を有する間に得たりとて、天界の様を見きはむることは難し。如何に理なりと雖も事実を伴はずば、我等には正しき信を得られじとの念の強きため、世人は我等が説を半信半疑にて聞き居らば、何時迄月日を重ぬるとも望は達し難し。されば半信半疑のうち其半疑を除去せよ、然して除去したる半疑を半信に加れば即ち全き信となる。是半疑と云ふ差を減じたるが故に、全き信のさとりとなるなり。迷ひをとりて信に化せしむることをさとりと云ふなり。されば迷はんよりは信じて目的を達するに不如とは考へざるか。

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