覚者慈音1206 未知日記 第十巻 帰途案内記 転界の巻 NO 62  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1206
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 62
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.25


 前に述べたる如く魂(こん)は念となりて残る如く世人には考へしならん。是等は心意魂魄霊の区別より指したるにて、魂(こん)は陽性にして魄は陰性なるが故に斯くは語りしなり。今語りをる心(こころ)とは即ち心意の結合したるものを云ひ、魂(たましい)とは魂(こん)と魄の結合したるものを指したるが故に世人は考へを誤ち居るなり。
 我等先に語りたる念を残す勿れと云ひしは、魂(たましい)の陽分が心の陽分に念ぜられたるが故に、魂の緒は完全に切断せず。是が地上に残存し居ると見なさば可なり。念と云ふことに対しては前書に詳しく述べたれば、多くは語るの要なけれど今一言補筆なしをくべし。念ずると云ふは善悪に不拘、念ぜらられるものにて、其念ぜられたるものがかたまりて一種の力となりて残存す。故に念を残す勿れと教ゆるなり。又念と云ふは肥料の其の如きものとも見なして可ならん。この事柄より念仏すると云ふ事も察せられる筈なり。宗教者の語る念仏すべしと教へしは、この理に基きたるものにて、所謂学問智識によりて行はるる念仏にあらざる事の意味も従って察せられるならん。念の心をさとりて念仏するは是正しき念仏にあらず。念の心をさとりて申す念仏は肥料とはならざる故なり。所謂その念仏は特殊のものと化せられるによってなり。筆舌の及ばざる念仏にあらざれば魂には肥料とはならざるなり。
 さとりて申す念仏は空の形を現はすが故に、是は空念仏となりて飛散する他なし。よって斯くは語りしならん。故に汝等空しき拝みをなす勿れ。空しき拝みは肥料とはならずして雑草となるによってなり。是等の事柄は前書を通読したるものならば既に承知なし居る筈なり。稔らせたる身心とふとらせたる魂霊を分離せしめて、其分離が完全となるには念を残さざるやぅ用心肝要なり。然せざれば魂の緒は完全に切断せらるるものにあらず。完全に切断せられずば魂は天界に運ばるるとも其つながりの為に自由を失ふ。この事柄に対してよくよく考慮しをかずば第二の任務に従ふことは難き故なり。念を残さざる底の修行とは正しき生死を明らめずば望みは達し難し。いささかにても執着の思ひを貯へて心魂の分離をはかるとも及ばざる事の理は察せらるるならん。汝等に宿されし身心魂霊は唯見れば訳もなき事の如く思はるれど、事実は微妙なるものにて汝等の智慧にて考ふる時は唯不思議なりと云ふの他なからん。徒らに光陰を空しくする勿れ。肉体を有する現在は余りに短かし。早く此さとりを得て昇天の途につくべし。生死を生に帰せしめよ。生死を死に帰せしむるなかれ。宗教くさきことを語りて申訳なし。されど本論に入るに対して我、この宗教くさきことを語らずば、世人には種々様々の疑問を抱きて確定信仰を得ることは、至難なることを知るによつて今少し語るの要あり。

×

非ログインユーザーとして返信する