覚者慈音1205 未知日記 第十巻 帰途案内記 転界の巻 NO 61  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1205
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 61
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.25


 世人は長き間地上に生活せんことを望みて稔りをなさしめずば、其にて長き間地上に生存すとの過誤たる考へをなすなかれ。何となれば斯ることをなし居らば未熟の果物がむしばままれて、地に落つる如き結果とならん。手近き処にかかる教訓のある事に留意せよ。例へば一本の樹木に百個の稔りを得せしめんとして、其が五百千の稔りならばすべての果実は全きを得ず。故に百個を残してその他のものを、未熟のうちに払ひおとさずば望みは達せざることを、造主が知るによって斯くも未熟の間にふるい落し居ることを考へなば、汝等はふるいをとさるる未熟の果物とはならざるやぅ努力せざるべからず。ふるい落されざるやぅなすには、信を得て拝みするにあらざれば望みは達し難し。是等は譬喩なり。譬喩なれば訳もなき考へにて理窟を考ふること勿れ。世人は信を得んとして、却て訳もなき理窟を考ふることにのみ汲々たるは、却て信仰を妨ぐる故なり。譬喩なれば其譬喩の中の真理を知りて、是を己が信仰にとり入るる底の考へに止めよ。譬喩を事実の如くに思ひ誤りて余分の事に迄思ひ廻らして、空しき迷ひのみ多くする事を慎まざるべからず。言葉の中には誤ち多し。故にその中に含まれある真理を考慮して他は棄つべし。空しき考へは修養修行の妨げとなるによって是は更に注意しをくべし。


 余事は兎に角生より生を求むるは、即ち魂にして身心にあらず。然して魂と肉体をつなぐ魂の緒と云ふは即ち心なり。よって心を切り離すことを魂の緒を切ると云ふなり。魂の緒とは心にして、心に悩み患ひあらば、魂の緒は完全に切断せらるるものにあらず。地上に心を残して昇天する時肉体と魂との完全切断なし居らざるが故に迷ひは残るなり。念は残るなり。念と云ふは魂の緒の切断せざる一種のあらはれにして、是を残し居らば魂は昇天すとも、肉体のつながりは残存して、是は宙に迷ふ故に、幽霊見たり枯尾花の如き譬喩のものは現はるるやもはかられざるなり。我等先に念は残す勿れ説きをきしは是なり。されど今語る処と前書に語りし事と聊か相違ある如く、世人には解釈するやもはかられず。是等の事柄を今少しく語りをかずば世人には又も迷ひを深くせん。よって今少しこの事柄に対して語りをかん。

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