覚者慈音1203 未知日記 第十巻 帰途案内記 転界の巻 NO 59 セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1203
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 59
                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.24


 理論を知りても真実を把握するにあらざれば其は悟りにあらず。慈音欣情は理論は知る。されど真実の信は未だ具はらざる故なり。是言行未だ一致なし居らざる信なるが故なり。理論は然あるならんと云ふ言葉にかすぎず。真実を得てはじめて然あるなりと確定することを得るなり。聊かむつかしき言ひまわしにて解し難からん。されど世人の総てに対する信仰には然あるならんとの程度迄は進むことも得れど、然あるなりとの確定迄には進み居らざる事多かるべし。是言行一致せざる故なり。言のみ具はりたる信仰にては其は不確定にして、又行のみ具はりたる信仰も亦不確定なり。故に言行は必ず一致しての後の信仰にあらざれば、完全とは云ひ難し。話は枝葉に入りたる感あり。もとに復すべし。


 世人は日々路傍の草を取る。是に対して何か覚ることはあらざるか。路傍の草はぬけどもぬけども知らぬ間に又生ひ繁り居るを見るならん。是等に関して魂の緒の切れたりと云ふことと結びつけて考慮し見よ。路傍の草を完全に根をぬきたりと思ひ居るに不拘、根はぬけ居らざるが故に更に新らしき芽を出すにてはあらざるか。是全く魂の緒の切れ居らざる故なるべし。肉体に於ても亦然り。完全に魂の緒の切れたる人と、切れざる人との相違はここにあるなり。この理をよくよく味はふべし。生死の明らめを完全になしたる人の魂の緒の切れたると、生死の明らめ完全ならざる人との魂の緒はその切断方法にも相違あることを思ひあたるならん。世人の生死の明らめは死を明らむることはなし得れど、生を明らむることは難きが故に、完全に魂の緒の切ることを得ざるなり。故に一方は残り、一方は切断せらるるが故に、天界に昇ることは難し。所謂路傍の雑草をぬくにあたって根を残す等し。死は残るか、生が残るか、何れか一方は残り、一方は枯るる底の姿となる。故に浮住界に迷ふ結果となるなり。さとりとは生死を完全に明らめての覚りにあらざれば、肉体と魂とは完全なる分離は至難となるなり。世人は永久雑草の如く地球上にのみ繁茂なし居りては、天界の楽土へは上昇することあたはざるべし。部室の中に横臥して近親者にとり囲まれて長き眠りにつきたる人を、正しき往生と思ふも真にあらず。刃に貫かれて死したる人を見て地獄に墜ちたる人と思ふも亦真にあらず。要は死にかたの如何に不拘、生死の明らめを完全になしたる人にあらざれば正しき往生とは云ひ難し。

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