覚者慈音1198 未知日記 第十巻 帰途案内記 大序の巻 NO 54  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1198
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 54


                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.23


 斯く語るとも世人は未だ合点なすあたはず。兎や角と迷ふならん。汝の肉体に具はりある眼は左右二個を有し居るにてはあらざるや。一方の眼(め)は肉体にむけ、一方の眼(め)は魂にむけなば、両者は眼(め)より入り来りて脳中に一つとなりて映じ来るは、是当然なりとの思ひを何故起さざる。一方に肉体を見、一方に魂を見る。然して脳中に是を接続せしてはじめて心魂を一体化せしむる具備を有し居るとの考へを何故起さざる。是は小さき一つの譬喩に過ぎず。斯る小さき処にすら理の含まれ居るにてはあらざるやとよくよく思慮せよ。然してその理をさとりたらば是を心の眼(まなこ)に映して両者を接続せしめなば、左右両者は完全一体となるとの結論に達するならん。されば世の中のすべての事柄に対してその心してその一々を見のがさず眼(まなこ)をむけ居らば、大なる発見はなし得らるるものなり。林檎の落ちたるを見て引力の法則を考察したる人すらあるにてはあらざるか。かばかりの事と思ひて見のがし居るが故に注意は足らず、為に大発見大発明はなされざるなり。
 蛇は地上を匍匐(はいまわり)居れどその速度はきはめて速し。汝等匍匐(ほふく)して蛇と競争なし見よ。彼には遠く及ばざるべし。汝等が匍匐せる速度と、蛇が這ひまわる速度と、是を数学上にうつして測定なさば、更に数学上に於ても新らしき発見はなさるる筈なり。同じ大地を匍匐する蛇と亀とに於て、是等両者の比較をなすも亦何かの発見材料となるとこに迄思ひをはせよ。
 宇宙の具備には唯見れば訳もなき事と思ふことにすら、其処に神秘のかげを有すと思はば空しく光陰を過ごすことはなさざるべし。余事は別として魂は常に油断なく八方十方に眼をむけて少時も休み居らざるに対して、心はその余波をうけて唯その事柄の一々に対して動揺なし居りては、空しき働きに終るは当然なりとの考へを起して、魂と肉体とを完全につなぐ任務を疎かにせざる用心肝要なるべし。世人は肉体にのみ両眼をむけて、魂の方向には気づかず、又魂に両眼をむけては肉体をおろそかにす。是にては両者は接続せらるるものにあらずとの思ひを、少時も忘るること勿れと注意す。然して身心魂の一体化の力が全くつとめをはたしての後、身心と魂はここに分離せられて、魂は霊に従ひて天界に至る。汝等天界と云へば汝等の住める処と距離ある如く考ふる勿れ。汝等が住める処も天界なり。天界とは別世界にあらず。此道理をよくよく認識なしおくべし。身心の徳は実在化せる地球に於て長くその栄光は輝く。是魂の徳なり。然してその魂は霊に化せられて、ここにはじめて人界の道を全うして、更に新らしき任務につくと知るべし。斯くなりたる時霊光は更に魂に対して接続魂となる。言葉を変ゆれば接続霊と云ふも可ならん。即ち神と魂との中間に立ちて神と魂とをつなぐはたらきをなすによって、霊は接続の役目となるなり。
 斯く語らば世人は三段論法の如く感ずるならん。前書に語りたる三対四律の法則の意味とは、その趣きを異にするにてはあらざるかとの質問をなすならん。この事柄は追々語るべけれど講話の都合上今少しこの論説を猶予せよ。兎に角霊を中間にしてその霊がはたらきをなすによって、神と魂は一体化しここにはじめて神の存在の有無を知るに至ると知るべし。
 魂を霊界に移してはじめて神使となるなり。所謂我等の如く神使となりて神の命ずるがままに行動をなす任務に従ふ。是即ち天界へ来るべき順路なりと知らば可なり。この経路を経ずしては天界に入るとも空しくさまやぅのみにて、長き浮住界の苦みを味ふ他何等なすべき術をも知ること難し。
 天界は余りにその範囲拡きが故に、一歩あやまてば斯くも迷ひを伴ふ。故に我等に従ひて迷はず、又我等を見失はぬやぅ耳目をそばだてて油断なく従ひ来るべし。我等が汝等を導きて是にてよしと云ふ迄は、我等を離るること勿れ。我等も亦世人を棄つることなかるべし。この篇を此辺にて閉ぢ更に次の講話にうつして、三対四律の法則をくはしく語らん。よって大序篇は是にて終るべし。
               昭和二十四年六月二八日~
               同年    八月五日

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