覚者慈音1199 未知日記 第十巻 帰途案内記 大序の巻 NO 55  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1199
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の二
転界の巻 
NO 55


                  セイキョウ貴尊 講述
                    2019.7.23


 世人は命数尽きて此世を去る言葉を他界すると称し居るを聞く。よって此言葉を此巻の標題になさんと考へたれどミキョウ曰く、此言葉は香ばしからず。よって天界或は移界或は転界の三種のうち、何れかを択ばれては如何と語るによって、其うち転界を択びて是を用いたり。よってその言葉の意味は、命数尽きて魂の緒の切れたることを意味すと承知せられたし。所謂汝等が住める地球を離れて他の世界に転じたりとの意味なりと解釈せられんことを望む。世人は地球上にありて百歳或は其以上の年月を重ねたることを長しと考ふるや。是をその人に訊ね見よ。彼は言はん。我、百歳の年月を重ねたるが長かりしとは思はじと答ふるならん。されど他より見る時は百歳は長寿者として吾も斯く迄生きたしと願ふならん。過ぎ去らば夢なり。一睡の夢なり。生きたるもの長しとは思はざるなり。徒らに百歳生くるとも其は怨むべき日月に他ならず。所謂悲しむべき境涯なるが故なり。されば其百歳の中一日にても正しき信を得たる人こそ、其一日は百歳に相当す。何となれば唯一日のさとりは永久不変の境涯に入りたる人にのみ与へられたる大なる宝なるによってなり。
 信ずる力によってさとりを求むるは是信の徳なり。信ぜざる者の知る処にあらず。よって我は世人に伝ふる処はさとりの宝を、今生の未だ尽きざる間に求めよと勧奨るものなり。斯く語らば世人は我を宗教者の如く考ふるならん。我は宗教者にあらねど世人をさとらせざれば、天界に導かんとすとも迷ふ故なり。迷はば我を離れて従ひ来らず。従ひ来らねば我は世人を案内する事難し。よって斯くは語りしなり。世人は地上に存在して身心魂のつながりにて一日の生活を営み来りたり。今日迄我等が説きし身心魂を完全一体化なすことを得たりとて、其のみにては天界に至ること覚束なし。魂は如何に強くとも如何に微妙なるはたらきをなすとも、其は地球上にありてのはたらきにして、未だ全完無欠のものとはなり居らざるが故なり。所謂身心魂の三段論法にては、地球上に於てのみ完全無欠のはたらきをなすことを得れど、是は前書にも語りし如く三対の法則なるが故に其はたらきには限度を有するなり。八月六日(昭和二十四年)こだま会に於て円海が語りし如く、肉体の悩み心の悩みはすべて魂によって治癒せらる。されど肉体に欠陥あらば是に薬石を用いずば魂のみにては治癒するものにあらずと語りたり。魂の力は限度あるによってその欠陥を補ふ薬石なくんば、己より其を作りて補充する力なしとの意味を伝へたるものなり。然るに是等に対して未ださとらざりし人多かりしは遺憾なり。宜しくよく考慮せんことを望む。

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