覚者慈音1114 未知日記 第六巻 光明論  光明論下巻 巻の十  完結篇  教主寛大講義

覚者慈音1114
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    2019.6.30


 明日よりは否々今よりは汝等は智者なり。徳者なるべし。霊光の冠を戴き、足には自由の沓を下さる。さらば自由の沓とは如何なるを云ふか。汝等の思ふ自由とは己自ら欲するがままの行動をなすを自由と考へ居てはあやまりにして、そは我儘気儘と云ふにて自由にはあらず。我儘気儘は神の道即ち自然の道に反するによって法網に縛ばらる。故にその自由は自由にあらずして不自由となる。されば自然に順ずる自由ならざれば正しき自由は得られざるなり。汝等の世界に称へ居る自由主義とかは不自由主義に属するはきはめて多し。何となれば自然の法則に合はざればなり。
 例へば日本には古来より日本思想あり。今敗戦によって古来の風習悪かりしとて是を他国思想に改めんとなすは実に愚も亦甚だし。如何に自由なりとて三千年の風習を改むるには、即ち三千年を要するならん。国を苦境に陥れたるは現代人なり。然るに其罪を祖先に逆上って根原となすか。然して自らは其罪を免かれんとなす。斯る自由は自然の法則に合はざるは当然なり。然れば真の自由とは如何なるを云ふか。是を一言詞すれば自然の法則に順応して行動するを云ふなり。汝等この沓をうがたば自づと理解するならん。
 次に救ひの笏についてなり。救ひとは弱きを助け、強きをくぢくと考ふればあやまりなり。もとより弱きを助くると云ふも救ひに属せど、強きをくぢくは救ひにあらざればなり。汝等は是等に関して屡々誤認し居るを我は知れり。救ひとは斯る範囲のせまきものにあらず。強弱優劣の区別なく救ひの手を差は延ぶるにあらざれば正しき救ひは得られざるなり。一方に偏して行はば一方はうらむ。汝等神は弱き者の味方なりと云へる言葉を誤解し居るにてはあらざるか。神は正しき者の味方なりとの意味を誤解し居るなるべし。然れどもその言葉は方便にして事実は然らず。神は善悪正邪悉くを捨てざるなり。我に云はしむれば神は弱き者にも強き力を与へ給はんと。汝等野菜を作るも発育不良ならば如何にか方法を構じて是を立派に育てんと努力するに等し。其は兎に角救ひと云へる意味は斯る救ひにあらずしてありとあらゆるすべての者を完全に育てあぐるを救ひと云ふ。神は廃物を造りあらざれば是を活用するを救ひの一大事とは云ふなり。是等に関しては後に説明すべし。

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