覚者慈音1112  未知日記 第六巻 光明論    光明論下巻 巻の十  完結篇

覚者慈音1112
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    2019.6.30


 正しき信仰を求めんとならば先づ信心、或は信念を養成せざれば信仰を理解しあたはざるべし。即ち信心信念は信仰に入るの門なればなり。汝等の信心と云ふは神を祀り、仏に帰依するを信心と誤認し居るは多し。信心と信仰との区別判然せざるも是に基因す。信心とは直き心なりと教ゆる指導者も亦尠からず。又人間本然の心なりと説くもあるなり。又学者達の中には疑はぬ心は信ずると教ゆるもあり。されど我の語るはいささかその意味を異にす。即ち疑ふと云ひ、又信ずると云ふも迷ひにて是等を信心に属さしめざる信心ならざるべからず。食足りて飢えずと云ふは汝等は信ずると云ふならん。その信は事実として信ずと云ふ如く、汝等の信不信は斯る類の意味に用い居れり。我の語る信心は別の意味にして信不信を超越したる信を云ふなり。然らば如何なるを信となすや。曰く、不動不変の大意をたづぬるを正しき信心と我は語るなり。もとより食すれば飢えずと云ふも、信の部に属せど是等には動、変の理ありて正しき信ををくに足らず。何となればそは一時の信なればなり。この意味の理論は初心者には理解するあたはざらん。されどフア、フンの門を見聞したる者にして理解なすを得ずと云ふことなかるべし。この理より更に推知せば低きものを高くするは信心なりとの結論に達すべし。されば我の汝等に望む信心とは道理をつみ重ねよと云ふにあるなり。すべてを明らむれば有難しかたぢけなし勿体なしとの心を生ずるに至らん。是ぞ即ち信仰の徳にあらずして正しき信仰を得たるなり。日本の短歌に「何事のおはしますかは知らねども、かたぢけなさに涙こぼるる」とか云へるを我は聞きたり。汝等この言葉を今一段進めて勿体なさに進むべし。有難しは心の信にて、かたぢけなさは念の信、勿体なさは真の魂(たましい)の信に区別せばほぼ意味は察せらるるならん。信仰とは何とは知らず、唯勿体なしと思ふ境地に至らば其にて望みは達せらるるなりと考ふべし。



googleより転記
「武家に生まれ、鳥羽上皇に仕えるものの、友人の急死により世の無常を知った佐藤義清。またの名を、西行という。西行が25歳で出家する際、愛娘を縁から蹴落としたというエピソードは有名である。恩愛を自ら断ち切る胸の内は断腸の思いであったろう。家族を捨て、故郷を捨てた西行が辿りついたのは、そんな自分をも快く受け止め、花を咲かせてくれる桜の木の下であった。
「ねがわくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
 享年73歳。その願い通り、西行は桜のころに旅立った。
 人は誰しもひとつやふたつ、罪らしきものを背負うことはあるだろう。知らぬ間に、人を傷つけ、悲しませてしまうこともあるかもしれない。ときに道を誤り、間違った方向へ進んでしまうことも。それでも前を向いて歩まねばならない。迷いながら、軌道修正しながら。旅の途中、お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれ、歌を詠んだ」。

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