覚者慈音1111  未知日記 第六巻 光明論    光明論下巻 巻の十  完結篇

覚者慈音1111
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    2019.6.30


 さて次には信仰の帯、迷ひ迷はさるる事なき永久不変の信仰の帯をかたく結ばざるべからず。信仰の帯とは如何なる事を指すか。即ち情(なさけ)、愛、慈悲を結びとむるは信仰と云ふ帯によらざれば完全なる姿とはならざるなり。我、見るところによれば汝等はきつね、たぬき、むじな、へび等を祀りて是を信仰し居るを訝る。汝等は動物より劣りたりと認識なしての信仰か。はた又すべてのもの死すれば神となるとの観念より信仰なすや。或は彼等を祀ることによってその報酬として何物か自らに福徳を求めんと願ふ欲望の信仰なるか。汝等の信仰とは実に浅薄なる迷ひの信仰にすぎざるなり。汝等は高きを信じ低きを信ぜざる傾向を見す。人もし汝に利益とすすめなばその何なるかを問はず信仰するはまこと純然たる信仰にあらず。信仰は道理に合ふことを信ずるにあらざれば正しき信仰にあらず。理に合ふ如く見ゆるとも事実を伴はざるは理屈にして信ずるに足らざるなり。又理なき事を信ずるは迷信なるは勿論なり。故に神を措きては他に深き信仰ををくものあらじと云ふも過言にあらず。何となればすべては神の造りしなれば、すべてを知るは神なるべければなり。汝等神を知らばすべての理、不理の区を明らかに知ることを得るによって迷信に陥る心配なし。信仰深ければ深き程その徳は現はる。汝等利己のための信仰は却て危険を伴ふ憂あれば慎まざるべからず。我の汝等に授くる信仰の帯とは汝等の思ふ如きせまき範囲の信仰にあらざるなり。汝等は信仰と云へる言葉を誤解し居るならん。我汝等に教へんと欲する信仰とは文字を離れたる信仰を示めすなり。汝等は尊きと卑きに区分して尊きを信仰するは宜しからず。信仰には尊卑の区別はあらざるなり。卑中に尊あれば信仰には尊卑の区を考ふることあるべからず。是等については追々語るべし。

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