覚者慈音1110 未知日記 第六巻 光明論  光明論下巻 巻の十 完結篇  教主寛大講義

覚者慈音1110
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    2019.6.29


 もとより親子の愛は愛なれども帰するところは肉親の関係より生じたる愛にして大愛とは云ひ難し。即ち動物性愛なれば余儀なき愛と見るべき理も含まるるなり。是等は動物性本能愛にして、謂はば愛の種子とも云ひ得らる。然るに他の動物はこの種子は或程度発芽なすとも成長せず。そのまま肉体と共に枯死す。然るに人間は他の動物と異なり、この愛の種子は発芽して是を養育すれば非常に発育成長繁茂なす性質を有するは他の動物より優れたる本能を有するなり。是、他の動物に有せざる智慧あるによってなり。汝等は動物性の衣をぬぎたれば今より人間性の愛、更に神道性愛とも云ふべき愛の衣を纏はざるべからず。然らば愛とは如何なる愛を正しとするやと云ふに、即ち一方に偏らざる万方に通ずる愛を云ふ。真実すぐれたる大愛とは草木もなびく底の愛を云ふなり。故に人間はもとより一切衆生なびかざるものあらんや。親は子をいましむるにその大愛によるならば鞭打たずとも子は改むべし。大愛には悪魔怨敵も降伏するなり。されば今この愛の中着を与ふべし。是を重ぬるによって汝等は大愛の徳を知りその徳に化せられて深き恵に浴することを得るなり。


 次には慈悲の上着を纏ふべし。謂ゆる慈悲とは憐れみとの意味にも通ひ、又救ひの意味にも通ずるを以てその範囲はきはめて広し。さればこそ慈悲と云ふは愛と情の合流のあらはれと見るもよし。又仁と云ふも即ち慈悲なるべし。是を要約すれば一切悉くを救はんとの念の結晶とも見らるるならん。見よ。汝等が人間界を !
一つとして正しきものはあらず。恰も氷上を踏むが如き有様にて危き事この上もなし。是を神の眼より見る時救ひやらずばあるべからずとの念を生ずるは即ち、神の大慈大悲なり。汝等道行く時路傍に遊べる小児が危き事をなし居らば、是を止むるも慈悲なるべし。故に慈悲は愛の拡大、情(なさけ)の延長とも見ることを得るならん。汝等卑賎(いやし)き人、貧しき人に対しては憐みの心をいたせど、尊き人富める人には憐憫の心は生ぜざるならん。斯る事にては正しき慈悲心を認識することあたはず。慈悲は貴賤貧富の区はあらずして行はれざるべからず。尊きもの、富めるものにも人間なれば欠陥は免がれざるなり。是に対して慈悲の手は差し延べざるべからず。汝等地球上に於て人種の相違より争闘を起すも慈悲の区別をあやまるによって、様々の問題を誘発する結果醜き争ひを醸すなり。慈悲全ければ斯るあやまちはあらざるべし。すべて大慈大悲の力によらざれば世は保たるるものにあらず。汝等が考ふる慈悲と云ふは慈悲と云はんよりは寧ろ憐みに近かるべし。慈悲と云へる言葉の意味はその範囲きはめて広く、且つ深淵なれば筆舌にては尽し難し。されば上着を与ふべし。是を着用して以て自覚せよ。

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