覚者慈音1097 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の九 大悟録 下 第四章 センの門  テッシン貴尊最終講義

覚者慈音1097
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の九 
教主講、テッシン貴尊解説
大悟篇  下
第四章 セ ン の門
テッシン貴尊最終講義

                 テツシン貴尊 講述
                   2019.6.25


 此センの門に於て汝等は何事をも心づかずして唯漫然と見守り居るによりて婉曲的に悟せしめんと試みて斯くははからひたるなり。然るに我、斯く語る言葉に対して不審の念を抱くのみにて裏面に考へを廻らす者の少なきを遺憾とす。汝等は余りに自己心にて未だ此心よりぬけ出づるを得ざる事を我は知るによって斯くも注意を与へ居れるなり。
 大凡センとは選(択ぶと云ふ意味)に通じ、又洗(あらふ)の意味に通ずるなり。されば汝等従来の自己本位を洗ひ浄めて真の人間本位にかへらざるべからず。是即ちセンなり。洗ひ清められたるなり。汝等大晦日には今年一年の垢を洗ひ落とすに風呂に入りて神祭祀をなすならん。一年の垢は自己本位の汚れを洗ひ清めて人間本来に至るを意味するなるべし。神を祀るは神の任務に従はんと祀るならん。されば汝等人間性に入りしなれば神の代理として自己本位の人々を導く先駆者とならざるべからず。明日よりは汝等は神の代理なり。即ち神の世界に奉仕したる使用人となりたれば、命ぜらるる儘に後輩の指導者として任務を怠る勿れ。
 泰岳の云ひし如く神は我等の傍を離れず守り給ひ、夜深く眠り居る間にも抱きて安らかになし給ふとあり。神ならぬ汝等に斯る事のなし難きは当然なれど、せめてはわづかなりとも其心を汲み取りて是を実行に移して以て人類の幸福を計るべし。即ち其はセンの法則に合ふと知るべし。汝等自己を捨つるは難しと考ふること勿れ。人間性とは自己の拡大なれば捨てたるにあらず。広く深く高く延長したるに過ぎざるなり。されば汝等の修行の方法としては自らを考ふるに先だち、先づ他を先に考えへてすべてを処理する事に尽力せば望みは達せらるべし。自らを先にするは個人的となるうらみあればなり。例へば汝を謗りたる者あらば先づ其者の心になりて考察し見よ。然せば和睦の道は開かるべし。我、自ら非なりしならば恥づることなく謝すべし。若し汝に訴へをなす者あらば相方の云ひ分を聞きて後和解の道を計るべし。一方に偏すること勿れ。又未知と既知との区別をなす勿れ。凡ては我なればなり。汝等の世界には自ら好むものを廃して神に願ひをかくるあり。是をものだちと称して行じ居るを我等は知る。斯る事をなさしむる指導者には深き考へありてなりしが、後世是等より種々なる迷信を併発なすに至りたり。自己心を捨てんとせば先づ己の嗜好物を捨つる底の覚悟を要すとの教へなるが、枝葉に入りて迷信と変じたるは是非も無きことなり。汝等自己心を棄つる為に此法を用ゆるも亦無意義にはあらざるべし。
教主、出座も程近ければ、我この講話を閉ぢて退座せん。汝等垢づきたる衣を脱ぎて更に新しき衣を教主より受くべし。
           (昭和二十一年六月一日~七月十四日)

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